第96話 帰れないサロン
朝、出頭書は全員の前に置かれた。
ミレイユは約束どおり隠さなかった。
私は彼女を責められなかった。
責める資格もなかった。
セシリアの椅子が空いたままの食堂で、六人が私の筆跡を読む。
怒る者はいなかった。
その沈黙が、怒りよりずっと苦しかった。
アイリスは唇を噛み、ノエルは朱筆を握り潰しそうになり、サフィラは王女の顔を保てず、エリスは皮肉の言葉を失い、ユーリアは私を見ない。
ミレイユだけが、真っ直ぐこちらを見ていた。
「私を止めるために見せたのね」
「はい」
「ありがとう、と言うべきかしら」
「いつかで結構ですわ。今は怒ってください」
怒れなかった。
自分に怒るだけで、手一杯だった。
* * *
出頭しないと決めても、帰る場所は戻らない。
差し押さえはさらに広がり、残された食堂と数室も午後には封鎖予定となった。
ミレイユが用意していた退避先の商家は、監査を恐れて断ってきた。
サフィラの大使館は本国確認を理由に門を開けない。
ノエルの研究室は魔導審査会の封印対象になり、エリスが頼れる書庫は火災後の調査で閉鎖。
アイリスの騎士団宿舎は自宅待機命令のせいで使えず、ユーリアの影道は罠だらけ。
帰れない。
その事実が、サロンという名前から温度を奪っていく。
それでも六人は、ただ座っていなかった。
アイリスは護衛として残るのではなく、追跡される覚悟で東門へ向かうと言った。
ノエルは魔導式を完成させるため、封印前の研究室へ戻ると言った。
ミレイユは金と噂を動かすため、監査室へ逆に乗り込むと言った。
サフィラは外務局の前で王女として抗議すると言った。
エリスは記録庫へ入り、移送簿を盗むのではなく閲覧請求すると言った。
ユーリアは、私の行き先を読むために屋敷へ残ると言った。
* * *
「全員で離れるのは危険よ」
私が言うと、アイリスが静かに首を振った。
「全員で固まっていても、守り切れません。守られるだけの私たちではありません」
その言葉は、私が彼女たちへ渡してきたはずのものだった。
今度は私が、それを受け取れずにいる。
セシリアを奪われた恐怖が、私をまた檻を作る側へ押し戻そうとしている。
「戻ってきて」
ようやく出た言葉は、命令ではなく願いだった。
サフィラが私の手を取る。
「戻ります。戻る場所が壊れていても、あなたのところへ」
エリスが肩をすくめる。
「場所がないなら、記録上だけでも帰還先を作るわ。書類の逃げ道は得意なの」
ノエルが頷く。
「帰る、は座標ではなく関係性」
ミレイユが笑う。
「でしたら、かなり高価な関係性ですわね」
少しだけ、食堂に呼吸が戻った。
* * *
夕方までに、六人は別々の扉から出た。
敵に追跡先を絞らせないためだ。
私は屋敷に残った。
残ることが、こんなに苦しいとは思わなかった。
誰かを待つ側になると、時間は刃物みたいに長い。
ユーリアだけが、影の中に立っている。
「お嬢様は、今夜出ます」
唐突に言われ、私は息を止めた。
「決めていないわ」
「決めていなくても、身体が王宮へ向いています」
彼女は私の嘘を責めない。
ただ、見抜く。
差し押さえ札の貼られた廊下を、夜風が通った。
そこにもう、サロンの温かい音はない。
六人が出ていく前に、私たちは食堂で短い約束を交わした。
命令ではない。誓約でもない。破ったら痛む魔法など何もない。
ただ、それぞれが自分の言葉で戻ると言うだけの約束だった。
アイリスは、剣を抜くより先に帰る道を確保すると言った。
ノエルは、睡眠を削りすぎたら自分で申告すると言った。
ミレイユは、採算が崩れても自分を売らないと言った。
サフィラは、王女の責任を理由に恋を捨てないと言った。
エリスは、真実を抱えて一人で死なないと言った。
ユーリアは、影に戻っても必ず足跡を残すと言った。
私は何を言えばよいかわからなかった。
戻ってきて、と願うことはできる。
でも、自分も戻ると言えるほど、まだ自分を信じられない。
沈黙が長くなり、アイリスが少し眉を下げた。
私はようやく口を開く。
「私は、待つ練習をします」
それは情けない約束だった。
けれど六人は笑わなかった。
セシリアがいれば、きっとその練習を一緒にしますと言っただろう。
空の椅子を見て、私はその声を想像した。
屋敷に残った私は、帰れないという言葉を何度も噛みしめた。
帰れないのはセシリアだけではない。
アイリスは騎士団へ戻っても飾りの妻に戻る危険があり、ノエルは研究室へ戻っても成果だけを奪われるかもしれない。
ミレイユは商会へ戻れば値札をつけられ、サフィラは大使館へ戻れば国益に包まれ、エリスは図書館へ戻れば真実を沈黙させられ、ユーリアは影へ戻れば名前を失う。
帰る場所とは、建物ではない。
そこへ戻った時、自分でいられるかどうかだ。
そう考えると、サロンはまだ完全には壊れていないのかもしれない。
建物は封じられても、彼女たちが戻ると約束した関係は残っている。
なら私は、それを信じて待たなければならない。
待つことは何もしないことではない。
机に残された証拠を整理し、退避した使用人の名簿を確認し、王太子への返答案を破棄せず保留にし、誰かが戻った時のために灯りを消さない。
その一つひとつが、今の私にできる戦いだった。
けれど夜が深くなるほど、待つ戦いは私の弱い場所を抉った。
夜番の灯りを替えるため、私は台所へ行った。
そこには、使用人のひとりが残した小さな包みがあった。
中身は干した果実と、短い手紙。
お嬢様たちが戻った時のために、と書かれている。
屋敷を離れた者まで、戻るという言葉を残していった。
私は包みを棚へ置き、場所を記録した。
戻ってくる誰かが、空腹で倒れないように。
こんな小さな準備が、今の私を辛うじて屋敷へ繋ぎ止めている。
王宮へ走ることは簡単だ。
待つために果実の包みをしまうことのほうが、ずっと難しい。
私は灯りを替え、台所の戸を閉めた。
その音が、かろうじてサロンの心音のように聞こえた。
廊下へ戻る途中、壁に残った背丈の印を見つけた。
ノエルが寝不足のまま測ったせいで斜めになり、セシリアが笑って直した線だ。
帰る場所は大広間だけではない。そんな失敗の跡にも、まだ息が残っていた。
私は指先でその線をなぞり、誰かが笑った日の高さを覚え直す。
帰れない場所になった屋敷で、私は自分がどこへ行くつもりなのか、初めて本当に怖くなった。
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