第97話 七人の手紙
最初の手紙は、アイリスから届いた。
届けたのは人ではなく、彼女の剣帯に仕込まれていた小さな紙片だった。
東門の追跡配置、教会騎士の交代時刻、王家の影が使う屋根筋。
最後に、短い文字があった。
あなたを追うためではなく、あなたが戻る道を守ります。
私はその一文を読み、椅子の背を握った。
泣けば、手紙が滲む。
泣く資格がないと思いながら、それでも目の奥が熱くなる。
次にノエルの紙が届いた。
魔導式の数値の横に、眠そうな筆跡で書き足しがある。
感情は誤差ではない。あなたが自分を捨てようとする感情も、観測対象。修正する。
こんな時まで彼女らしくて、胸が少し痛いほど温かくなった。
* * *
ミレイユの手紙は、香料商の請求書に紛れていた。
金策の結果、監査官の買収経路、噂の売り手の名。
そして、赤いインクでひとこと。
あなたを安売りする取引だけは、私が必ず潰します。
サフィラの手紙は外交文書の写しの裏にあった。
外務局前で抗議し、王宮が通信停止を認めたこと。
大使館の沈黙が完全な同意ではないこと。
最後に、青い字が揺れていた。
国を背負ったまま、あなたの隣へ帰ります。だから、私の帰る隣を勝手に空けないで。
エリスの手紙は、焦げた索引札に挟まれていた。
移送簿の閲覧請求は拒まれたが、拒否理由に聖都南院の名が出たこと。
彼女らしい皮肉の後に、珍しくまっすぐな文があった。
真実は人を救わないと思っていた。でも、あなたが消えたら、私はまたそう信じてしまう。
私は手紙を胸に押し当てた。
言葉は届く。
届くのに、セシリアの声だけがまだ遠い。
* * *
ユーリアの手紙は、手紙ではなかった。
彼女は目の前にいる。
それでも、私の机に一枚の報告書を置いた。
王宮への単独出頭を試みる可能性、極めて高い。
阻止方法、影縫い。ただし対象者の自由意思を侵害するため不適。
代替案、同行ではなく先回り。
最後の行に、震えるほど薄い字で書かれていた。
命令ではなく、お願いです。ひとりで消えないでください。
私は顔を上げた。
ユーリアはいつもの無表情で立っている。
けれど指先だけが、袖の内側で握られていた。
「あなたは、ずるいわ」
「学びました」
「誰に」
「お嬢様に」
返す言葉がなくなった。
私は報告書を畳み、他の手紙と重ねる。
七人のうち、六人の言葉がここにある。
足りないひとつの空白が、いちばん重かった。
* * *
深夜、セシリアの手紙は届かなかった。
代わりに、祈りの痛みが来た。
手首の薔薇が細く熱を持ち、胸の奥で白い光が瞬く。
声ではない。
文字でもない。
ただ、彼女がどこかで祈ろうとし、途中で押し潰された痛みだけが、私の身体へ落ちてきた。
私は机に両手をつく。
七通目の手紙が、痛みだけで届いたようだった。
セシリアはまだ生きている。
まだ、抵抗している。
それがわかった瞬間、安心より先に怒りが来た。
助けたい。
今すぐ助けたい。
でも机の上には、六人の手紙がある。
私をひとりで行かせないための、柔らかくて強い鎖だ。
夜明け前、私は七通分の返事を書き始めた。
どれも出せる宛先がない。
私が返事を書き始めると、言葉は思ったより不格好だった。
アイリスへは、止めてくれてありがとうと書きかけ、まだ素直に書けずに消した。
ノエルへは、私の感情も観測してほしいと書き、恥ずかしくなって紙を裏返した。
ミレイユへは、私を売らないでいてくれてありがとうと書き、商人に向ける文として奇妙すぎて笑ってしまった。
サフィラへは、隣を空けないと書いたが、その隣がどこにあるのか今の私にはわからない。
エリスへは、真実をまた無駄だと思わせたくないと書き、言葉が重すぎて止まった。
ユーリアへは、お願いを聞きたいと書いた。
それだけは、消せなかった。
七通目の白紙だけが残る。
セシリアへ何を書くべきか、わからない。
助けに行きます、と書けば、彼女の帰る力を信じていない気がする。
待っています、と書けば、私の焦りを隠す嘘になる。
帰ってきて、と書けば、彼女をまた私の願いで縛る気がする。
結局、私は白紙の中央に蜂蜜の小さな染みを作っただけだった。
茶器から落ちた一滴が、言葉の代わりに丸く広がる。
それを見て、私は初めて少し泣いた。
夜明け近く、私は書けなかった七通目の紙を折った。
何も書いていない紙を折るのは、降参に似ていた。
でも、白紙のまま残すことにも意味があるのかもしれない。
今の私がセシリアへ言葉を送れば、焦りや罪悪感が混じる。
それを彼女に背負わせたくなかった。
だから私は、白紙の中に蜂蜜の染みだけを残した。
言葉ではない。
帰ってきた時に薬へ入れるはずだった、小さな甘さの印。
セシリアなら、それを見て何と言うだろう。
たぶん困ったように笑い、レティシア様も少し休んでくださいと言う。
想像しただけで、胸が痛む。
私は白紙を他の六通と重ね、封をせずに机へ置いた。
届けるためではなく、私がひとりで決めないための重しとして。
その時、手首の薔薇が白く疼いた。
セシリアの祈りが、痛みだけで届いたのはその直後だった。
机に並ぶ手紙は、私への愛の言葉であると同時に、作戦書でもあった。
誰がどこで何を掴み、どの道が閉じ、どの道がまだ細く開いているか。
甘さと実務が同じ紙にある。
それが、このサロンらしいと思った。
セシリアなら、そこに祈りと薬の時間も書き足しただろう。
私は六通を読み返し、赤い糸で結ばず、一枚ずつ別の封筒へ戻した。
まとめてしまえば、また七人をひとつの束として扱ってしまう気がしたからだ。
それぞれの筆跡、それぞれの怒り、それぞれの優しさ。
私はそれを一つずつ受け取らなければならない。
愛されることは、甘いだけではない。
相手の個別の痛みを見続ける責任でもある。
手紙を読み返すたび、私はそれぞれの筆圧の違いを覚えていった。
アイリスは強く、ノエルは途中で眠そうに薄くなり、ミレイユは最後まで飾る余裕があり、サフィラは丁寧すぎるほど整い、エリスは急ぎながらも鋭く、ユーリアは消えそうなほど細い。
愛されている、と一言でまとめるには、それぞれ違いすぎた。その違いを守るために、私はまだ倒れてはいけない。
封筒の角には、それぞれ別の匂いが残っていた。
革、薬草、香料、青い封蝋、煤、雨に濡れた影糸。
読まなくても誰のものかわかるほど、彼女たちは違う場所で戦っている。その違いが、私を机に繋ぎ止めた。
それでも書かずにはいられなかった。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




