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第87話 影への赦し

 王家の影は、昼の路地にも闇を持ち込む。


 禁書館から戻る馬車の車輪が細い道へ入った瞬間、前後の辻に人影が立った。


 剣を抜くほど派手ではなく、通行人が偶然立ち止まったように見える配置。


 けれどユーリアの呼吸が変わった。


 彼女は私の斜め前へ出て、手袋のない指で影糸を解く。


「お嬢様、馬車から降りないでください」


「あなたは」


「私が話します」


 言い切る声は硬い。


 昔の命令を受ける時の声ではない。


 自分の過去へ歩いていく人の声だった。


 路地の奥から、灰色の外套を着た女が現れた。


 年はユーリアと近い。


 目の奥に、眠らない仕事を長く続けた者だけの乾きがある。


「ナイトレイン。ずいぶん明るい場所を歩くようになった」


 その名を呼ぶ響きに、ユーリアの肩がわずかに強張った。


* * *


 女はレティシアを返せとは言わなかった。


 代わりに、ユーリアの罪を数えた。


 王宮への報告、夜間の監視、かつて消した手紙、口を塞いだ証人、命令に従って見捨てた少女たち。


 ひとつひとつは短い。


 短いからこそ、刃のように刺さる。


 ユーリアは反論しなかった。


 私の中で怒りが膨らむ。


 それはユーリアを傷つける女への怒りであり、同時に、彼女が本当にそれらをしてきたのだという事実への痛みでもあった。


「赦されたつもりか」


 女が笑った。


「公爵令嬢の寝台を守れば、影の仕事が消えると思ったか」


 ユーリアの手が震えた。


 私は馬車の扉へ手をかける。


 アイリスが目で止めたが、私は降りた。


 これは私が代わりに戦うためではない。


 ユーリアが過去に潰されないよう、隣に立つためだ。


「赦しで消えるとは、誰も言っていません」


 私の声に、女の視線が初めてこちらへ向いた。


「では、なぜそばに置く」


「今の彼女が、誰の命令でもなくここにいるからです」


* * *


 ユーリアは私を庇うように半歩動いた。


 その動きを、私は袖を掴んで止める。


 守られるだけの位置へ戻れば、彼女はまた影として扱われる。


「ユーリア。あなたが答えて」


 彼女は長く沈黙した。


 路地の向こうで、見物人の声が遠ざかる。


 やがて彼女は、女へ向き直った。


「消えない。私がしたことは、消えません」


 その声は低いが、折れていない。


「けれど、命令でしか動けなかった手を、今は自分で使っています。お嬢様を守るためだけではない。セシリア様の道を開き、アイリス様の背を押し、エリス様の箱を奪わせないためにも」


「綺麗な言葉だ」


「汚い手で言っています」


 ユーリアはそう言って、自分の手を見た。


「それでも、誰かの涙を拭けるなら、私はその手を隠しません」


 女の表情が一瞬だけ歪んだ。


 それは嘲りではなく、羨望に近いものだった。


 彼女もまた、どこかで選べなかった人なのかもしれない。


 けれど今は、その痛みに名前をつけている余裕はない。


* * *


 影たちは攻撃せず、道を開けた。


 引き際が早すぎる。


 ユーリアも同じことを思ったのだろう。


 屋敷へ戻るまで、彼女は一度も背を座席につけなかった。


 サロンへ着くと、セシリアがまっすぐユーリアへ駆け寄った。


 怖がるかもしれないと身構えたユーリアの手を、セシリアはそっと包む。


「帰ってきてくれて、ありがとうございます」


 その言葉に、ユーリアの無表情が少し崩れた。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 赦しは、過去を消す白い布ではない。


 戻ってきた人へ、今どこに立つかを尋ね続ける灯りなのだと思う。


 けれど灯りの下にも、敵の影は伸びる。


 門扉に新しい紙が貼られていた。


 王宮法務院による資産調査開始、必要に応じヴァルトローゼ王都邸を仮差し押さえ対象とする。


 屋敷へ戻ったあと、ユーリアは手を洗い続けた。


 血はついていない。


 煤も、泥も、目に見える汚れはもう落ちている。


 それでも彼女は水盤の前から離れず、指の間を何度も擦った。


 私は扉の外でしばらく待ち、入ってよいか尋ねた。


 ユーリアは振り返らずに、はい、と答える。


「昔の仲間に会うと、身体が先に命令を思い出します」


 水面が震えていた。


「殺せ、止めろ、報告しろ。もう従わないと決めたのに、手だけが動き方を覚えている」


 私は水盤の横に布を置いた。


 手を掴んで止めることもできたが、それは今の彼女に必要な触れ方ではない気がした。


「覚えている手で、今日は箱を守ったわ」


「それで帳消しにはなりません」


「帳消しの話はしていない」


 彼女がようやくこちらを見た。


「私は、あなたの過去を白く塗りたいわけではないの。黒いまま、今どこへ伸ばすかを見ている」


 ユーリアの喉が小さく動いた。


 彼女は布を取り、水滴を拭いた。


「お嬢様は、時々ひどいことをおっしゃいます」


「今のは甘い慰めではなかったわね」


「はい。だから、信じられます」


 その返事に、胸が温かく痛んだ。


 赦しは優しいだけでは足りない。


 過去を見たまま隣へ立つ覚悟が要るのだと、彼女に教えられている気がした。


 その夜、セシリアがユーリアの部屋を訪ねた。


 私は廊下の角で偶然その背を見つけ、声をかけずに立ち止まった。


 盗み聞きはよくない。


 そう思いながら、足が動かなかった。


 セシリアは小さな盆を持っていた。


 蜂蜜を少し入れた温かい水と、手を温める布。


「私は、ユーリア様の過去を全部は知りません」


 扉の向こうで、セシリアの声がする。


「でも、怖いと思ったことはあります。最初は、あなたが何を見ているのかわからなかったから」


 沈黙。


 それから、ユーリアの低い声。


「当然です」


「今も、全部怖くないわけではありません。でも、帰ってきてくれるなら、そのたびに怖さを確かめ直します」


 私は胸を押さえた。


 セシリアの優しさは、ただ包むだけではない。


 怖いものを怖いまま、相手を切り捨てない強さがある。


 扉が開く前に、私はその場を離れた。


 ユーリアが赦されたかどうかではない。


 彼女がまた帰ってくる場所を、セシリアがひとつ増やしたのだ。


 翌朝、ユーリアは自分から門番へ謝った。


 かつて王家の影として屋敷の出入りを監視していたこと、そのせいで門番の記録が王宮へ流れていたこと。


 門番は困った顔で聞き、最後に帽子を握り直した。


「今は、どちらの側においでで」


 ユーリアは私を見なかった。


 自分で答えるためだ。


「この屋敷へ帰ってくる人たちの側にいます」


 門番は長く黙り、それから鍵束を彼女へ見せた。


「では、裏門の軋みを直しておきます。帰る方が転ばぬように」


 赦しではない。


 でも、今の選択へ返された小さな信頼だった。


 貼り紙の赤い印は、夜まで待たずに屋敷を寒くした。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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