第86話 燃える禁書館
聖堂図書館の煙は、王都の塔より先に見えた。
白い石造りの建物から上がる灰色の筋は、祈りの香ではない。
本が焼ける匂いを、エリスは馬車の中で一度も間違えなかった。
「禁書館です」
彼女の声から皮肉が消えていた。
それだけで、私は事態の深さを知る。
教会は裁判を前に、証拠を隠すだけでは足りず、過去そのものを灰にしようとしている。
馬車が止まる前に、エリスは扉へ手をかけた。
アイリスが肩を押さえ、私が名を呼ぶ。
「エリス」
「姉の記録があるの」
その一言に、誰も続きを止められなかった。
彼女の姉は、教会の改竄を知って消された。
その名を残す索引が、禁書館の奥に眠っていると聞いていた。
炎は本だけではなく、エリスが真実を無駄だと思い込んできた年月まで燃やそうとしていた。
* * *
禁書館の前は混乱していた。
表の書架は無事だと教会騎士は叫ぶ。
燃えているのは老朽化した裏倉庫で、危険だから近づくなと。
けれどエリスは、迷わず裏口へ向かった。
「老朽化した裏倉庫に、星冠記録術の原本を置く司書はいないわ。そこは隠したい棚を燃やす時に使う言い訳よ」
ユーリアが影から鍵を抜き、ノエルが扉の術式を読み解く。
熱気が頬を打った。
紙が爆ぜる音は、誰かが小さく悲鳴を上げているように聞こえる。
私は手袋の下で疼く薔薇を押さえた。
契約ではない。
本に拒絶の意思はない。
だから破約の薔薇では炎を切れない。
無力感が喉を塞いだ時、セシリアが濡らした祈り布を私の手に巻いた。
「火は私が抑えます。全部は無理でも、通る道だけ」
「倒れるまで使わないで」
「はい。倒れる前に止めてください」
彼女は自分で限界を頼んだ。
それは昔の自己犠牲とは違う、仲間へ差し出す合図だった。
* * *
奥の棚は半分崩れていた。
エリスは咳き込みながら、埃を払わない棚の奥へ腕を伸ばす。
以前、彼女が禁書の棚だけ埃を払わないと言った理由を、私はそこで理解した。
埃は隠し場所を示す目印だったのだ。
焼けた木板の裏から、金属の薄い箱が落ちる。
エリスはそれを抱え、熱で赤くなった指を離さなかった。
「開けて」
ノエルが箱の封印を解く。
中には、聖約改竄に関わる索引札と、焼け焦げた名簿の端が残っていた。
クローチェ、という姓がかすかに読める。
エリスの唇が震えた。
「姉さん」
泣く声ではない。
呼び戻そうとして、もう戻らないことを知っている声だった。
私は彼女の肩に触れてよいか迷った。
その迷いを見たエリスが、涙で濡れた目のまま笑う。
「触れて。今は、ひとりで持つと落とす」
私は彼女の肩を支えた。
熱い煤と、古い紙と、彼女の震えが手のひらに残る。
* * *
外へ戻ると、教会騎士が道を塞いでいた。
彼らの目は箱へ向いている。
火災の救助者を見る目ではない。
証拠を逃した敵を見る目だった。
アイリスが一歩前へ出る。
「負傷者を通せ」
「その箱は教会財産です」
「中身を燃やしてから財産と呼ぶのか」
剣は抜いていない。
それでも彼女の声だけで、騎士たちは半歩退いた。
ミレイユがすかさず周囲の商人や見物人へ声をかけ、火災時の証言者名簿を作り始める。
サフィラは外交官へ送るため、教会施設の火災と証拠保全妨害を記録する。
それぞれが、自分のやり方で燃える場所から未来を拾っている。
エリスは箱を抱えたまま、私へ囁いた。
「真実は救わないと思っていた。でも、誰かと持てば、逃げ道くらいにはなるのね」
「ええ。次は裁く道にもするわ」
その時、ユーリアが屋根の影を見上げた。
彼女の顔から色が消える。
救い出した箱の中身を、私たちは屋敷へ戻る馬車の中で確認した。
索引札は熱で反り、名簿の端は指で触れれば崩れそうだった。
それでも、いくつかの名前と日付は読める。
聖女候補、沈黙修道院、発声矯正、婚約聖約補正。
その横に、クローチェ家の女性名があった。
エリスは唇を噛み、血が滲む前に自分で力を抜いた。
「姉は、消えたのではなく消された。わかっていたのに、文字で見ると腹が立つわね」
セシリアがいれば祈っただろう。
でも今、ここにいるのは私たちだけだ。
私は祈りの代わりに、エリスへ白い布を渡した。
「泣いても、記録は読めるわ」
「泣くと字が滲む」
「では、私が読む」
エリスはしばらく迷い、それから箱を私の膝へ置いた。
信頼というには不器用で、委託というには温かい重さだった。
私は焦げた札を一枚ずつ読み上げる。
エリスは泣かなかった。
ただ、姉の名が出た時だけ目を閉じ、聞き逃さないように小さく頷いた。
真実は人を救わないと彼女は言っていた。
けれどこの瞬間、少なくとも彼女の姉は、灰の中から名前だけでも帰ってきた。
私はその名を、裁判まで必ず運ぶと決めた。
火災の記録を作るため、私たちは帰宅後すぐに証言を分担した。
誰が煙を見たか、誰が扉を開けたか、誰が箱を持ち出したか、教会騎士がどの言葉で制止したか。
疲れているのに、全員が席を立たなかった。
エリスは姉の名を見つけた直後だというのに、震える手で時刻を書いた。
私は休ませるべきだと思った。
しかしエリスは首を振る。
「今書かないと、教会の言葉で上書きされる」
彼女は真実を信じていないふりをしてきた。
でも本当は、上書きされる痛みを誰より知っている。
私は彼女の隣で、焦げた紙片の形を写し取った。
ノエルは魔導的な焼損方向を図にし、ミレイユは火災を目撃した商人の名を買い、サフィラは外交書式へ直し、アイリスは騎士の配置を描き、ユーリアは屋根の影の逃走経路を示す。
ひとつの火事が、七人の手で証拠へ変わっていく。
燃やされたものは戻らない。
それでも、燃やした側の手つきまでは残せる。
夜更け、エリスは焦げた索引札を一枚だけ自分の枕元へ置いた。
証拠としては保管箱へ入れるべきだとわかっていても、姉の名が残る紙をすぐ手放せなかったのだろう。
私は注意しなかった。
人は証拠だけで立っていられない夜がある。
エリスは私に気づき、ばつが悪そうに眼鏡を押し上げた。
「明日には戻すわ。今夜だけ、姉を教会の箱に入れたくないの」
「教会の箱ではなく、私たちの箱よ」
「それでも、今夜だけ」
私は頷いた。
真実を裁判へ運ぶことと、喪失を悼むことは同時に必要だった。
箱の底には、熱で曲がった真鍮の栞が残っていた。
エリスはそれを見た瞬間、息を止める。姉が本を読む時、頁を折らないよう使っていたものだという。
証拠ではない。けれど、彼女が真実を諦めなかった手触りだけは、灰の中から戻ってきた。
「昔の仲間です。王家の影が、今度は教会騎士と一緒に動いています」
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