第85話 閉じられた国境門
サフィラの国境印は、卓の上で青く沈んでいた。
昨日までなら、その印ひとつで母国へ向かう外交便が開かれた。
今朝は王都外郭門で差し戻され、印の効力確認が必要だという札を付けられて戻ってきた。
閉じられたのは門だけではない。
サフィラが王女として母国へ助けを求める道も、少女として孤独ではないと知る道も、まとめて封じられている。
「国境警備は王家の管轄です。教会の裁判と無関係のはずなのに」
サフィラの声は澄んでいた。
澄みすぎて、底にある怒りがよく見えた。
彼女は泣かない。
泣けないよう育てられた王女の姿勢で、便箋をまっすぐ揃えている。
私はその背筋を美しいと思うと同時に、痛ましくも思った。
「無関係ではないと見せたいのでしょう。あなたがここにいるだけで国際問題になる、と私たちを脅すために」
「私は、国を人質に恋を諦めるよう教えられてきました」
サフィラは国境印を手に取る。
「でも、恋を選ぶために国を捨てるつもりもありません」
* * *
私たちは二通の抗議文を作った。
一通はレーヴェ王国大使館へ、サフィラ本人の安全確認と外交便停止の説明を求めるもの。
もう一通はロゼリア王宮へ、裁判を理由に隣国王女の通信を妨げた根拠を問うもの。
どちらも強すぎれば火種になり、弱すぎれば握り潰される。
サフィラは何度も言葉を選び直した。
王女としての私、では冷たい。
ひとりの留学生としての私、では軽い。
母国の名で、では重すぎる。
「私はいつも、ちょうどよい重さの言葉を探してきました」
彼女は苦く笑った。
「重すぎれば戦争、軽すぎれば売買。恋文くらい、重さを量らずに書いてみたかった」
ミレイユが静かに茶を注ぐ。
「でしたら、三通目を書きましょう。送らないものを」
サフィラが瞬いた。
「誰へ」
「レティシア様へ。王女でも外交文書でもない、ただの女の子として」
私がむせそうになると、ノエルが何かを記録しようとして、アイリスに朱筆を取り上げられた。
重い日の中にも、こういう小さな乱れがある。
サフィラは少しだけ笑い、三通目の便箋を受け取った。
* * *
午後、レーヴェ大使館からの返答は来なかった。
代わりに、王宮外務局の使者が到着した。
彼は丁寧な礼を取り、サフィラを母国保護下へ戻すための一時預かりを提案した。
聞こえは柔らかいが、要するにサロンから切り離し、王宮の監視下へ置くということだ。
「王女殿下の安全を最優先に考えれば、係争中の屋敷に滞在なさるのは危険です」
使者は私を見なかった。
サフィラの安全を語りながら、サフィラの意思も見ていない。
サフィラは静かに立ち上がった。
「危険は理解しています。ですが、私はここに滞在する意思をすでに示しました」
「殿下のお立場では、私的な意思より国益が」
「国益を語るなら、隣国王女の通信を止めた理由を先に示しなさい」
声は荒くない。
けれど室内の空気が一瞬で張りつめた。
サフィラは王女だった。
そして、その王女の目の奥で、私を選んだ少女が震えずに立っている。
私は彼女を守るために前へ出たい気持ちを抑えた。
今この瞬間、彼女の言葉を奪わないことが、いちばん必要だった。
* * *
使者が去ると、サフィラは椅子に沈み込んだ。
青銀の髪が肩から滑り、いつもの凛とした輪郭が少し崩れる。
「手が、冷たいです」
私は彼女の許しを待ってから、その手を包んだ。
王女の手ではなく、冷えた少女の手だった。
「国を背負ったまま、ここにいていいのかしら」
「背負わずにいてほしいとは言えないわ。でも、ひとりで背負う必要はない」
サフィラは私の指に額を寄せた。
唇が触れるほど近く、けれど触れない距離。
「では、半分だけ持ってください。残りは私が持ちます」
「ええ。落としそうになったら言って」
彼女は小さく頷いた。
夜、ようやく届いた大使館の返書は空白に近かった。
本国確認中、静観せよ、王宮と協調せよ。
その三行の下に、誰かが急いで書き足したような薄い字があった。
三通目の送らない手紙を、サフィラは暖炉の前で書いた。
私が横にいると書きづらいかと思って離れようとしたが、彼女は袖をつまんで止めた。
「見られるための文ではありません。でも、ひとりで書くと王女の文に戻ってしまいます」
便箋には、思ったより幼い字が並んだ。
青い薔薇が咲いた朝のこと。私に攫ってほしいと言った夜のこと。国境の向こうにいる母を恋しいと思うこと。王女なのに怖いと言えない自分が嫌いだったこと。
そして、ここにいると怖いままでも呼吸ができること。
サフィラは書き終えると、便箋を折らずに私へ差し出した。
「預かってください。送らないなら、あなたに持っていてほしい」
「私が持つと、あなたの逃げ道まで奪うかもしれないわ」
「いいえ。これは逃げ道ではなく、戻る道の目印です」
その言葉に、胸が詰まった。
王女として外交文書を書き、少女として恋文を書き、そのどちらも捨てない。
彼女の選択は、私が思うよりずっと強い。
だからこそ、国境門を閉ざした相手は彼女の強さを恐れているのだとわかった。
私は便箋を胸元の内ポケットへ入れた。
そこはかつて、王太子からの婚約書を入れるよう教えられた場所だった。
今は、王女が自分で書いた帰り道を入れている。
国境門の閉鎖は、屋敷の使用人たちにも不安を広げた。
戦になるのか、隣国王女を匿った罪で王都が荒れるのか、誰かが小声で尋ねた。
サフィラはそれを聞き、逃げずに台所へ入った。
王女が使用人の前で説明するなど、普通ならありえない。
けれど彼女は青い外套を脱ぎ、ただの少女の姿で立った。
「私の国は、まだ敵ではありません。私も、この屋敷を戦場にしたくありません。そのために、私は王女として言葉を尽くします」
使用人たちは戸惑いながらも耳を傾けた。
サフィラはさらに続ける。
「怖ければ、出てください。残るなら、私のためではなく、あなた自身が納得できる理由で残ってください」
その言葉は、私が使用人たちへ告げたものと似ていた。
けれど彼女の口から出ると、外交文書ではなく生活の約束になる。
あとで私は礼を言った。
サフィラは少し疲れた顔で微笑む。
「国境が閉じたので、せめて台所の扉くらいは開けておきたかったのです」
その冗談があまりに健気で、私は彼女の手を握りたくなった。
今度は、彼女のほうから指を絡めてきた。
聖堂図書館方面に煙、証拠保全急げ。
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