第84話 凍結された金庫
朝のパンが、いつもより薄く切られていた。
台所の者は悪くない。
王都の商人たちが、ヴァルトローゼ王都邸への掛け売りを一斉に止めたのだ。
理由は支払能力の確認、係争中資産への配慮、聖約裁判終結までの取引保留。
どの言葉も、飢えを礼儀正しく包んでいるだけだった。
ミレイユが食堂へ入ってきた時、彼女の笑みはいつも通り華やかだった。
ただし、扇を持つ手が少しだけ早く動いている。
「ローゼン商会の王都金庫が凍結されましたわ。私の個人口座も、父の名義も、関連倉庫の銀冠まで」
セシリアが息を呑む。
サロンの資金は、甘い茶菓子のためだけにあるのではない。
護衛の給金、診療費、証拠保全の書記料、逃がすべき使用人への退職金。
金を止められるということは、居場所の血流を止められることだった。
「ごめんなさい」
誰より先にそう言ったのは、ミレイユ自身だった。
私は首を振る。
「謝る相手を間違えないで。凍らせたのはあなたではないわ」
「ええ。でも、商人の娘として腹が立ちますの。私を黙らせるなら、もっと上手にやればいいのに」
彼女の笑みが少し深くなった。
怖い時ほど綺麗に笑う癖を、私はもう知っている。
* * *
応接室の卓に、ミレイユは小さな鍵を七つ並べた。
王都の香料倉庫、港湾の織物箱、学院近くの貸し書庫、聖都へ向かう巡礼宿の預け棚。
それらはすべて、彼女が家に売られる前から自分の足で作った細い資金線だった。
「隠し金庫ではありませんわ。私の名前で契約し、私の筆跡で更新し、私が損を承知で残した逃げ道です」
エリスが一つの鍵を持ち上げる。
「教会の近くにもあるのね」
「禁書司書の方が逃げ込める場所は、多いほうが商売になりますもの」
「ずいぶん先物買いが得意な商人ね」
「あなたが皮肉を返せるくらいには、成功しておりますわ」
二人の会話に、少しだけ室温が戻る。
けれど帳簿を開けば、数字は厳しかった。
屋敷の維持は数日なら可能。
証人を守る護衛を雇い続けるには足りない。
差し押さえが来れば、隠し線のいくつかも露見する。
私は支出の優先順位を書き出した。
食料、医師、使用人の退避、証拠写し、馬車。
最後に自分の衣装代を消すと、ミレイユが扇で私の手を叩いた。
「そこを消すのは最後ですわ。裁判で見た目を貧しくして同情を買うのは、あまりに安い商売です」
「贅沢をしている場合ではないでしょう」
「贅沢ではありません。敵に、こちらはまだ折れていないと見せる費用です」
* * *
午後、ローゼン商会から使いが来た。
父名義の封書には、ミレイユがサロンを離れて実家へ戻れば一部凍結を解くと書かれていた。
娘を売り戻せば金庫を開けてやる、という意味だ。
ミレイユは封書を最後まで読み、破らなかった。
「証拠にします」
その声は明るくない。
けれど弱くもなかった。
私は彼女の隣に立ち、封書へ触れる前に尋ねる。
「写しを取っていいかしら」
「もちろん。私の値段表として、裁判で読み上げてくださいませ」
「値段表ではなく、脅迫の記録として」
「では両方で」
ミレイユは笑った。
その笑いの奥に、幼いころから金額で測られてきた傷が見えた。
私は衝動的に彼女を抱きしめそうになり、寸前で止める。
彼女はそれに気づき、自分から半歩近づいた。
「今日は、損得抜きで甘えてもよろしいかしら」
「ええ。請求書はいらないわ」
彼女の額が私の肩に触れた。
香水ではなく、紙とインクの匂いがした。
* * *
夕暮れ、ミレイユは再び卓へ戻った。
泣き顔を誰にも見せないまま、彼女は新しい資金表を書き上げる。
アイリスは護衛の人数を減らす代わりに巡回を組み直し、ユーリアは影道を使う連絡費を半分にした。
ノエルは実験器具を売ると言い出し、全員に止められた。
セシリアは自分の聖女装束の宝飾を差し出そうとし、ミレイユがそっと押し返した。
「それはあなたが選んで脱ぐ日に使いなさい。奪われて売るものではありませんわ」
その言葉に、セシリアは目を伏せて頷いた。
凍結された金庫の代わりに、サロンにはまだ互いの手が残っている。
けれど手だけでは、包囲のすべてを押し返せない。
夜、サフィラの外交便が戻ってきた。
金庫の話は、夕食にも影を落とした。
肉の量を減らし、香草を増やし、パンを薄く切る。
それだけなら耐えられる。けれど節約は、誰がどれだけ遠慮しているかを露わにする。
セシリアは自分の皿を残そうとし、アイリスは護衛だから少なくていいと言い、ノエルは食事より研究を優先しようとし、エリスは本の修復材を諦めると言った。
私はそのすべてを止めた。
ここで一番削ってはいけないのは、身体と尊厳だ。
ミレイユが静かに頷き、食費の欄へ赤い線を引き直す。
「貧しさを演出して同情を買う手もありますが、あれは長く続けると心まで貧しくなりますの」
商会令嬢らしい言い方だったが、奥にあるのは彼女自身の記憶だろう。
家にいたころ、彼女は損得を先に笑えば傷つかないと教えられた。
今、その彼女が損得だけでは守れないものを帳簿に書き込んでいる。
私は彼女の数字の横に、休息費と書き足した。
ミレイユが目を丸くする。
「何ですの、それは」
「泣くための茶代、眠るための薪代、怒るための紙代」
「ずいぶん曖昧な費目ですわ」
「あなたが監査で説明して」
彼女は少し笑い、休息費の横に必要経費と添えた。
その二文字が、凍った金庫より確かなものに見えた。
翌朝、門前のパン屋の娘が小さな籠を置いていった。
掛け売りは止められているはずなのに、中には昨日より厚いパンが入っていた。
添えられた紙には、代金は裁判が終わってからでよいとだけ書かれている。
ミレイユはそれを見て、しばらく黙った。
「危ない橋ですわ。店ごと目をつけられます」
「返す?」
「いいえ。受け取って、必ず払います。善意をなかったことにするのも失礼ですもの」
彼女は帳簿へ、パン屋の名を丁寧に書いた。
凍結された金庫の外にも、まだ細い流れはある。
それは大河ではないし、王宮の封鎖を押し流すほど強くもない。
けれど、誰かが見ている。
薔薇のサロンがただの醜聞ではなく、実際に誰かを助けた場所だと覚えている人がいる。
私はパンを分け、全員へ同じ厚さで配った。
セシリアがその一切れを両手で受け取り、目を伏せる。
「いつか、私も誰かにこういうパンを返したいです」
「ええ。まずは食べて、生き延びてから」
ミレイユがそう言い、ようやく自分の分へ手を伸ばした。
国境門の通行証が停止され、レーヴェ王国への急使が王都から出られないという報せだった。
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