第83話 聖女候補の沈黙命令
白い封筒を開くと、乾いた香の匂いがした。
教会で長く焚かれる聖香の匂いは、昔なら清らかだと思ったかもしれない。
今は、誰かの口を塞ぐ前に部屋を整えるための匂いに思える。
命令書には、セシリアの発言を裁判当日まで禁じると書かれていた。
理由は療養、魔力安定、聖女候補としての品位保持。
どれも柔らかな布のような言葉で、内側には針が縫い込まれている。
「私が話すと、聖女魔法の資格を一時停止するとあります」
セシリアの声は小さかった。
小さいのに、逃げてはいない。
私は命令書を暖炉へ投げ込みたくなる衝動を、手袋の指先を整えて押し込めた。
燃やせば一瞬だけ痛快だ。
けれど燃えた紙は、相手にとって都合のいい沈黙になる。
「従わない。けれど、向こうが奪いたいものを見誤らないようにしましょう」
「私の声ですか」
「声だけではないわ。あなたが何を怖がり、何を選ぶかを、あなた自身が説明する機会よ」
セシリアは胸元の聖印に触れた。
そこに刻まれた星の痕は、薄くなったはずなのに、教会の命令が届くたび赤みを帯びる。
* * *
応接室の一角を、小さな練習の場にした。
ノエルが発声時の魔力揺れを測り、エリスが過去の教会規定を引き、聖堂医師の古い診断書をミレイユが買い戻した写しと照合する。
アイリスは扉の前に立ち、サフィラは窓から見える教会騎士の数を数えた。
ユーリアは廊下の影を縫い、私の背後に誰も忍び寄らせない。
セシリアは石板を膝に置き、まず声に出さず文字で書いた。
私は沈黙を望みません。
その一文を見ただけで、胸の奥が熱くなる。
彼女はかつて、誰も拒んではならないと教え込まれた少女だった。
今は拒絶を言うために、声以外の道まで探している。
「次は、息だけで」
ノエルが眠そうに言う。
セシリアは頷き、唇を動かす。
音になる前の言葉が、部屋の中へ白い羽のように落ちた。
いやです。
声は出ていないのに、私の手首の薔薇が微かに痛む。
「反応あり。本人の拒絶は、音声に限らない」
ノエルの朱筆が走る。
エリスが目を細めた。
「教会は沈黙を命じたつもりでしょうけれど、沈黙の中に本人意思が残ると証明されたら困るでしょうね」
セシリアは初めて、少しだけ悪戯めいた顔をした。
* * *
昼前、教会代理人が訪れた。
彼は面会ではなく確認だと言い、セシリアが命令書を読んだかどうかだけを問う。
私は彼を玄関広間で止めた。
奥へ通せば、彼はこの屋敷の空気まで教会のものとして数える。
「セシリア様はご療養中です。沈黙命令に従い、発言を控えておられると理解してよろしいですな」
代理人の視線は、私ではなく階段の奥へ向いている。
そこにセシリアが隠れていると決めつけている目だった。
「発言を禁じた命令の有効性について、本人意思の記録を準備しています」
「本人意思など、聖女候補には祈りとして教会へ預けていただくものです」
その言葉で、背後の空気が変わった。
階段の踊り場にセシリアが立っていた。
アイリスが止めようとした手を、セシリア自身がそっと下ろさせる。
彼女は声を出さなかった。
ただ、石板を胸の前へ掲げた。
私は私の声を預けません。
代理人の顔から、柔らかな礼儀が剥がれた。
彼は怒鳴らなかったが、持っていた杖の先が床を強く打った。
「聖女候補としての自覚をお持ちなさい」
セシリアはもう一枚、石板をめくる。
聖女である前に、私は私です。
* * *
代理人が帰ったあと、セシリアはしばらく階段に座り込んだ。
強かったから平気、ということにはならない。
私は隣へ腰を下ろし、彼女の指先が震えを止めるまで待った。
「怖かったです」
今度は声が出た。
掠れていたが、彼女自身の声だった。
「ええ。怖いまま、よく立ったわ」
「祈りではなく拒絶を準備するのは、悪いことみたいで」
「誰かを傷つけるための拒絶ではないでしょう。あなたがあなたでいるための境界線よ」
セシリアは私の袖をつまんだ。
手を握りたいのか、握らずにいたいのか、彼女は少し考える。
それから自分で私の手を取った。
その選び方が、何よりの返事だった。
夕方、門の外に白い外套が並んだ。
石板の練習は夕刻まで続いた。
ただ拒絶を書くのではなく、どの言葉なら痛みが走り、どの言葉なら通るのかを確かめる。
嫌です、は喉を塞ぐ。望みません、は胸が痛む。私は選びます、はかすかに声になる。
ノエルはその差を記録し、聖約が拒絶語だけでなく自発的な選択を嫌っている可能性を示した。
エリスは古い典礼書を開き、聖女候補の沈黙は罰ではなく浄化期間と呼ばれていたと説明する。
言葉を奪う制度は、いつも美しい名前を持っている。
セシリアは何度も痛みに顔を歪めたが、自分から休むと言えるまで続けた。
その休むという一言が、私は何より嬉しかった。
倒れるまで頑張るのではなく、自分の限界を伝えてくれる。
私は蜂蜜を入れた茶を差し出し、彼女が自分で受け取るのを待った。
「レティシア様。私、沈黙を命じられると、昔の癖で従いそうになります」
「従いそうになることと、従うことは違うわ」
「では、従いそうな私も、ここにいていいですか」
その問いはあまりに小さく、あまりに重かった。
私は彼女の手を取る前に、頷いた。
「いて。強いあなたも、怖いあなたも、どちらも」
セシリアは泣かなかった。
ただ、石板の端に小さく、ここにいます、と書いた。
その夜、セシリアは自分から祈りを休んだ。
教会の鐘が鳴った時、彼女の肩は一度だけ跳ねた。
昔なら、その音に身体が従っていたのだろう。
けれど彼女は祈り布を広げず、代わりに私たちのために茶を淹れると言った。
聖女候補が祈らず茶を淹れる。
外の者が聞けば、不敬と笑うかもしれない。
でも私にとって、その湯気はどんな祈祷より尊かった。
セシリアは茶器を配りながら、ひとりずつ目を見た。
「今日は、祈らないことを選びます。明日祈りたくなったら、その時に選びます」
その言葉に、アイリスが深く頷いた。
ノエルは発言内容を記録しようとして、セシリアに笑われた。
ミレイユは茶菓子の在庫を気にし、サフィラは王女らしく茶杯を受け取り、エリスは不敬な茶ほどよい味がすると言った。
ユーリアは黙って湯気を見つめていた。
沈黙命令は、声を奪うために来た。
けれどこの夜、沈黙の中にあったのは服従ではなく、選ばれた休息だった。
教会騎士団が警護の名目で屋敷周辺に立ち始めたのだと、ユーリアが影から戻って告げた。
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