第82話 家名で呼ばれる少女たち
召喚状は、名前を奪う書式で届いた。
セシリア・ルミエールではなく聖女候補ルミエール、アイリス・ブランシュではなくブランシュ侯爵家令嬢、ノエル・アルカードではなくアルカード魔導家管理対象。
ミレイユはローゼン商会資産、サフィラはレーヴェ王国預かり人、エリスは聖堂図書館旧司書、ユーリアに至っては王家影務局登録者と記されていた。
紙の上で彼女たちは、誰かの姓や役職へ押し戻されている。
朝の光が明るいほど、その文字の冷たさは目立った。
「私、ルミエール家のものとして呼ばれるより、聖女候補として呼ばれるほうが慣れているんです」
セシリアは静かに言った。
慣れているという言葉の寂しさが、祈り布より薄く胸へ貼りついた。
私は返事を書こうとして、筆を止める。
代筆は早い。貴族令嬢としての整った文章なら、私ひとりで七通とも返せる。
けれどそれでは、相手の望む形に半分乗ってしまう。
「今日は、全員が自分の名を書きましょう」
私がそう言うと、ノエルが眠そうな目を上げた。
「署名実験。本人性の確認には適している」
「実験ではなく、宣言よ」
「宣言実験」
訂正されていない気がしたが、セシリアが小さく笑ったので、そのままにした。
重苦しい朝に、その笑いは細い針穴みたいな息継ぎだった。
* * *
最初に筆を取ったのはアイリスだった。
彼女は家名の下に騎士叙任名を添え、それから一度だけ私を見る。
「主君の名を書きたくなります」
「書いたら破棄させるわ」
「承知しました。では、私の名だけで」
紙に走る筆跡は剣筋に似ていた。
まっすぐで、迷いがあっても止まらない。
ミレイユは自分の召喚状を扇のように揺らした。
「ローゼン商会資産、ですって。私の値段をつけるなら、せめて桁を間違えないでほしいですわ」
笑いながら彼女は、資産ではなく代表権者として返書を書いた。
家に売られかけた少女が、自分の商いの肩書きを自分で選び直す。
その指の赤いインクは、血ではなく印章の色だった。
サフィラは王女の紋章印を前に、長く沈黙した。
「この印を押せば、母国を巻き込みます。押さなければ、私は人質のままです」
「どちらもあなたの選択に見える顔をして、あなたを削るわね」
「ええ。ですから、今日は名前だけにします。王女である私を隠さず、国の盾にも恋の言い訳にもしない名前を」
彼女はサフィラ・レーヴェと書いた。
青いインクが乾くまで、誰も急かさなかった。
* * *
ユーリアの召喚状だけは、封蝋が黒かった。
王家影務局登録者。
その文字を読んだ瞬間、彼女の指先から温度が消えたように見えた。
「お嬢様。この返書は私ひとりで処理します」
「却下」
反射で言うと、ユーリアの瞳がわずかに揺れた。
私は彼女の過去を赦すためにそばへ置いたのではない。
今、誰の命令でもなく私たちの隣へ立つ彼女を、紙の上で再び影へ戻されるのが嫌だった。
「あなたの過去を隠す必要はない。でも、あなたを登録番号で呼ばせる必要もないわ」
「私の名は、汚れています」
「汚れているなら洗うわ。消すのではなく」
言ってから、頬が熱くなった。
ミレイユが扇で口元を隠し、エリスがわざと咳払いをした。
ユーリアは表情を変えないまま、耳だけが少し赤い。
彼女はユーリア・ナイトレインと書いた。
筆圧は薄いのに、紙の裏まで届いていた。
最後にエリスが、聖堂図書館旧司書という肩書きを二重線で消した。
「旧、という字が嫌いなの。教会が私の棚を奪っても、私の記憶までは廃棄できない」
彼女は禁書司書と書きかけ、私を見て唇を曲げる。
「肩書きではなく名、だったわね」
エリス・クローチェ。
それだけの署名が、焼け残った本の背表紙みたいに強かった。
* * *
七通の返書を封じるころ、門前の見物人はさらに増えていた。
屋敷の中では名を取り戻す作業をしているのに、外では誰もが彼女たちを噂の材料にしている。
私は封蝋を押しながら、母に教えられた社交の笑みを思い出した。
笑っていれば傷ついていないように見える。
見えるだけで、傷は消えない。
「レティシア様」
セシリアが最後の封書を持ってきた。
彼女の署名は少し震えていたが、聖女候補ではなくセシリア・ルミエールとあった。
「私の名前、まだ自分のものに見えますか」
「見えるわ。少し泣きそうで、でも逃げていない字」
「では、それで出します」
私たちは同じ盆に七通の返書を載せた。
それは戦う準備であり、彼女たちが誰かの所有欄から抜け出すための小さな行列だった。
使者が去って間もなく、教会の白い封筒が届いた。
返書を書き終えたあと、私は古い名簿を取り出した。
王太子妃教育の一環で覚えさせられた、貴族令嬢の婚約予定表だ。
そこには、セシリアの名は聖女候補として、アイリスの名は近衛連携枠として、ノエルの名は魔導成果継承予定として書かれていた。
ミレイユの欄には持参金額、サフィラの欄には外交価値、エリスの欄には教会閲覧権限、ユーリアの欄にはそもそも名前すらない。
前世のゲームでは、彼女たちは攻略対象たちの物語を彩る少女だった。
この世界では、もっと露骨に計上されていた。
私は名簿を彼女たちへ見せるか迷った。
傷を見せることは、時に二度目の暴力になる。
けれど隠せば、私だけが知る情報で彼女たちを動かすことになる。
セシリアが私の迷いを察し、静かに言った。
「見せてください。怖くても、知らないまま守られるほうが嫌です」
その言葉に他の六人も頷いた。
名簿を開いた時、誰もすぐには話さなかった。
やがてミレイユが扇を閉じる。
「値段の付け方が雑ですわ。私なら、もっと痛いところを高く売ります」
笑いは小さかったが、その笑いで全員が息を吐いた。
名前を取り戻すとは、甘い宣言だけではない。
自分がどんな欄へ押し込められていたかを見て、それでもその欄へ戻らないと決めることだった。
署名を終えたあと、七人は互いの名を呼び合った。
儀式めいたことをするつもりはなかったのに、セシリアが最初にアイリスの名を呼び、アイリスが少し照れながらノエルを呼び、そこから順に名前が渡っていった。
家名でも役職でもなく、ただの名。
呼ぶたびに、その人がこちらを見る。
当然のことなのに、ここまでの道のりを思うと奇跡みたいだった。
私の番になり、七人の視線が集まる。
レティシア、と呼ばれることに、私はまだ慣れていない。
公爵令嬢、元婚約者、悪役令嬢。
私自身もまた、役割の名で自分を縛ってきた。
セシリアが柔らかく言う。
「レティシア様も、ご自分のお名前で返事をしてください」
私は返書の最後に、肩書きを書かず署名した。
レティシア・ヴァルトローゼ。
それだけでは公文書として弱いかもしれない。
けれど、弱くても私の名だった。
ユーリアがその署名を見て、ほんの少しだけ目を細める。
命令書ではなく名前を交わすこと。
それも、このサロンが守ろうとしているものなのだと気づいた。
宛名は私ではなくセシリアで、封蝋には聖女候補移送再審の印が押されていた。
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