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第9話 国のものではありません

 悪役という言葉が、白い聴聞室に落ちた。


 ユリウス・クラウンハルトは扉の前に立ったまま、昨夜と同じ微笑を浮かべている。乱れた髪もない。疲れた気配もない。断罪の場を作り、聖女候補を失い、王宮の記録まで崩されかけている男には見えなかった。


 その平静さが、かえって冷たい。


「レティシア。君は昔からそうだ。自分だけが正しいと信じると、周りが見えなくなる」


「ここは聴聞室ですわ。昔話の席ではありません」


 私はセシリアの前に立ったまま、礼をしなかった。


 聴聞官が慌てて椅子を引く。王家の使者は深く頭を下げた。書記の羽ペンだけが止まり、紙の上で黒い点を作っている。


「殿下、ただいま聴聞中でございます」


「知っている。だから来た」


 ユリウスは室内を見渡し、最後にセシリアへ視線を落とした。


 選ぶ目ではない。


 失ったものを棚に戻す時の目だった。


「セシリア。怖かっただろう。もう大丈夫だ」


 セシリアの指が私の袖を探す。


 私はその手を隠さなかった。隠せば、怯えた少女を庇う悪役令嬢の図になる。王太子が望む構図だ。


 だから一歩だけ横へずれる。


 セシリアが見える位置を作った。


「殿下の問いには、セシリア様が答えます。ただし、聖約痕の疼痛を伴う命令はお控えくださいませ」


「命令ではない。心配している」


「心配する人は、相手の痛みを確かめてから言葉を選びます」


 ユリウスの微笑が薄くなる。


 そこに初めて、昨夜の大広間で見た王太子の顔が戻った。選ばれることを疑わない男の顔だ。


「セシリア」


 彼はやわらかく呼んだ。


「僕の名を呼べるね」


 セシリアの喉元が淡く光った。


 けれど痛みは走らない。彼女は唇を震わせながら、礼儀のための言葉を選ぶ。


「ユリウス、殿下」


「よかった。君は僕を覚えている」


 聴聞官が安堵しかける。王家の使者も息を吐いた。


 私は冷めた目でそれを見ていた。


 名前を呼べることと、隣へ戻りたいことは同じではない。そんな単純なすり替えに、部屋の大人たちは乗りかけている。


「では、戻ろう」


 ユリウスが手を差し出した。


「君は王宮で休むべきだ。星冠教会にも診せる。僕のそばなら、誰も君を傷つけない」


 セシリアの喉元で聖印が縮んだ。


 赤い筋が肌の下へ走る。彼女の肩が跳ね、息が詰まった。


「わたし、は」


 声が細く切れる。


 私は踏み出しかけた足を止めた。支えたい。今すぐ抱き寄せたい。けれど、セシリアは必死に前を向いている。


 その選択を奪ってはいけない。


「聖堂医師」


 私は視線だけを動かす。


「今の反応を記録してください」


「王太子殿下の帰還要請に対し、拒絶語発声前に聖約痕の疼痛。先ほどと同一反応です」


 聖堂医師が即座に言った。


 書記が羽ペンを動かす。今度は、聴聞官が止めなかった。


 ユリウスの差し出した手が、宙で固まる。


「医師が政治に口を挟むのか」


「いいえ。痛みに口を挟んでおります」


 聖堂医師の声は低かった。


 セシリアが、そこで小さく息を吸った。


「殿下」


 痛みはある。けれど呼びかけはできる。


「わたしは、怖かったです」


「だから」


「あなたの隣が、怖かったのです」


 聖印が赤く締まる。


 セシリアの顔から血の気が引いた。けれど今度は言い切った。拒絶そのものではなく、感情の事実として。言葉の隙間を探し、奪われた声の外側を歩いたのだ。


 私の胸が熱くなる。


 ユリウスは数拍、理解しなかった。


 その後で、眉を寄せる。


「誰に言わされた」


「誰にも」


「レティシア。君は彼女に何をした」


「手を差し出しました」


「それだけで聖女候補が王太子を拒むはずがない」


「それだけ、ですか」


 私は笑った。


 声は静かだった。けれど部屋の白い壁が、冷たく鳴るほどはっきりしていた。


「誰かが痛がっている時に、手を差し出すことを。それだけ、とおっしゃるのですね」


 ユリウスの目が細くなる。


「君は昔から言葉が巧みだ。だが国は言葉遊びでは守れない」


「ええ。ですから記録が必要なのです」


「記録も証言も、国の安定に反するなら扱いを慎むべきだ」


 その一言で、聴聞室の空気が変わった。


 聴聞官が目を伏せる。王家の使者は動かない。書記の羽ペンがまた止まる。


 私は、やっと本音が出たと思った。


「国の安定」


「聖女候補は王家と教会が守る。彼女の力は国民のためにある。個人の感情で動かしてよいものではない」


 セシリアの手が震える。


 ユリウスは気づかない。気づかないまま、正しいことを言っている顔で続けた。


「セシリアは国のものだ」


 音が消えた。


 朝の光さえ、窓の途中で止まったように見えた。


 私はゆっくりと息を吸う。怒りで言葉を壊さないために。ここで叫べば、悪役令嬢の怒号として処理される。だから、最も丁寧な声を選んだ。


「人は、国のものではありません」


「王族の責務を知らない者の理屈だ」


「いいえ。人を道具として数える者の言い訳です」


 ユリウスの表情が消えた。


 王家の使者が一歩前に出ようとする。ユーリアが、その前に半歩だけ動いた。剣も術も使わない。ただ立ち位置だけで、使者の進路を消す。


 聴聞官は見なかったことにした。


「セシリア」


 ユリウスの声が低くなる。


「君自身の口で答えなさい。君は国を捨てるのか」


 卑怯な問いだった。


 王太子の隣に戻りたいかではない。戻らなければ国を捨てると責める問い。聖女候補として育ったセシリアには、一番深く刺さる。


 セシリアの膝が揺れた。


 私は支えるために手を伸ばす。


 その手を、セシリアが先につかんだ。


「レティシア様」


「はい」


「わたし、あなたの後ろに隠れたくありません」


 その声には痛みが混じっていた。


 けれど、痛みだけではなかった。


 セシリアは私の手を握ったまま、一歩前へ出た。隣に立つ。肩が触れる距離で、震えながら。


「わたしは、国を捨てません。困っている人を助けたい気持ちも、なくしていません」


 聖印が揺れる。


 それでも彼女は続けた。


「でも、そのために自分を差し出せと言われるのは、もう嫌です」


 最後の二文字で、赤い光が弾けた。


 セシリアが息を詰める。私は今度こそ彼女の腰を支えた。倒れないように。言葉を奪わないように。


 聖堂医師が机を回り込む。


「聴聞を中止してください。これ以上は危険です」


「中止など認めない」


 ユリウスが言う。


「セシリアの発言は明らかに誘導されている」


「では、誘導ではない問いをしましょう」


 私はセシリアを支えたまま、王太子へ向き直った。


「殿下。あなたはセシリア様に、痛みなく断る権利を認めますか」


 ユリウスは答えなかった。


 答えられなかったのではない。答える必要を感じていない顔だった。


 それが、何よりの答えだった。


「記録を」


 私は言った。


「王太子殿下は、聖女候補を国のものと発言。本人が自己犠牲を拒む意思を示した後も、聴聞中止を認めず」


「レティシア」


「記録を」


 書記が震える手で羽ペンを置き直す。


 その時、聴聞室の外が騒がしくなった。


 足音が複数。金具の鳴る音。近衛ではない。祈りの鈴のような、細い金属音が混じっている。


 王家の使者が扉へ駆け寄り、外の者から紙片を受け取った。読み終えた瞬間、その顔色が変わる。


「殿下」


 ユリウスが振り向く。


 使者は声を落としたが、静まり返った部屋では十分に聞こえた。


「星冠教会より、枢機卿ベネディクト猊下の代理が到着しました。聖女候補の身柄を、教会へ移すようにと」


 セシリアの体が、私の腕の中で固まった。


 王太子の顔から、初めて余裕が消える。


 私はその変化を見逃さなかった。


 王家と教会は同じ縄を持っている。けれど、その縄の端をどちらが握るかまでは、決まっていない。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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