第8話 封じられた拒絶の言葉
馬車が止まったのは王宮の正門ではなかった。
白い石壁に沿った細い通用路。花壇も噴水も見えない裏手で、車輪が静かに鳴りやむ。窓の外には兵が二人。どちらもこちらを見ず、見ていないふりだけをしていた。
ユーリアが先に降り、扉の横で膝を折る。
「正門には見物人が集められていました。王宮の者ではありません。けれど、誰かが来る時刻だけは知らせていたようです」
報告の形をした謝罪だった。
私は返事の代わりにセシリアの手を取った。冷えた指がすがるように握り返してくる。
「では、こちらの道で正解ね」
「はい。王宮聴聞室までは私が案内いたします」
セシリアは小さく息を吸った。
「レティシア様」
「平気よ。あなたは、言えることだけ言えばいい」
言えないことがある。
それを、私はもう知っていた。昨日の夜から今朝にかけて、セシリアは何度も言葉の端で痛みに止められている。王太子の名を否定しようとした瞬間だけ、喉元の聖印が赤く締まった。
問題はそれを王宮の前でどう証明するかだった。
王宮聴聞室は美しかった。
磨かれた床。壁にかかる王家の紋章。窓から入る朝の光。どれも丁寧に整えられているのに、人の心を落ち着かせるための部屋ではない。正しい答え以外を許さないための白さだった。
長机の向こうに聴聞官が座っている。痩せた男で、銀縁の眼鏡の奥に感情はない。その横には王家の使者が立ち、さらに一歩後ろに書記が控えていた。
「レティシア・ヴァルトローゼ令嬢。ならびに聖女候補セシリア・ルミエール。これより聖女候補連れ去りの件について聴聞を行う」
「言葉を直してくださいませ」
私は椅子に座る前に告げた。
「連れ去りではありません。保護です。こちらに診断書、保護記録、学院寮の確認書、聖堂医師の所見があります」
ユーリアが革の書類入れを差し出す。
聴聞官は表情を変えずに受け取ったが、最初の一枚をめくった指先だけがわずかに止まった。王宮が用意した筋書きには、医師の署名も寮の時刻記録もなかったのだろう。
「書類は確認する。しかし昨夜の舞踏会で王太子殿下の婚約者が聖女候補を連れ出した事実は変わらない」
「王太子殿下の前で倒れかけた女性を支えました。本人の意思を確認して、学院寮まで送りました」
「その本人の意思を確認したい」
聴聞官の視線がセシリアへ移る。
セシリアの肩がこわばった。私は手を離さないまま、一歩だけ半身を引いた。守るために隠すのではなく、彼女自身の顔が見えるように。
「セシリア・ルミエール。あなたはレティシア令嬢に無理やり連れ出されたのか」
「いいえ」
即答だった。
聴聞官の眉が初めて動く。
「では、自分の意思でレティシア令嬢の手を取ったと」
「はい。わたしが、取りました」
声は震えていた。けれど途切れなかった。
私は胸の奥で息を落とす。ここまでは言える。自分が選んだ事実は奪われていない。
問題は次だ。
「では、王太子殿下の元へ戻る意思はないと明言できるか」
空気が変わった。
セシリアの喉元で淡い光が跳ねる。薔薇の棘のような赤い筋が肌の下を走り、彼女の指が痛みに折れた。
「わたし、は」
言葉がそこで削られた。
セシリアはもう一度口を開く。唇が震える。声にならない息だけが漏れ、喉元の聖印がきつく縮んだ。
「セシリア」
私が名を呼ぶと、セシリアは首を横に振った。泣きそうな顔で、けれど逃げるなと自分に命じるように。
「殿下の、隣、には」
その先が出ない。
痛みに膝が崩れかける。私は椅子を蹴る勢いで支えた。
「そこまでで結構」
「まだ質問は終わっていない」
「終わっています。これ以上は尋問ではなく加傷です」
聴聞官の眼鏡が光を返した。
「拒絶を口にできないなら、拒絶の意思は確認できない」
「逆ですわ」
私はセシリアの背を支えたまま、聖堂医師の所見を机に置いた。
「拒絶の言葉だけが封じられている。だから確認すべきは、なぜ言えないかです」
聖堂医師が控えめに前へ出る。学院長が保護記録の証人として同席を求めた男だ。昨日まで王宮寄りに見えていた彼は、今は医師の顔をしていた。
「発声障害ではありません。肯定や事実説明は可能です。王太子殿下への拒否を示す語に反応して痛みが出ています。これは聖約痕の術式反応です」
「聖女候補が混乱している可能性は」
「混乱で特定の語だけを封じることはできません」
短い答えだった。
書記の羽ペンが止まる。王家の使者が咳払いをした。
「記録には、発言不能と」
「違います」
ユーリアの声が入った。
部屋の全員が彼女を見る。侍女が聴聞に口を挟むことは、本来なら許されない。けれどユーリアは姿勢を崩さず、書記の手元だけを見ていた。
「発言不能ではありません。拒絶語の発声時疼痛です。聖堂医師の所見にもそうあります」
書記が聴聞官をうかがう。聴聞官は数拍黙った後、かすかに顎を引いた。
羽ペンが紙を引っかく音が戻る。
私はユーリアを見ない。今はその小さな援護を、見なかったことにして受け取るのが一番よかった。
「では別の形で確認します」
私はセシリアに向き直った。
「セシリア。私の手を離してもいいわ。王太子殿下の元へ戻りたいなら、この場で離して」
セシリアの目が見開かれる。
その問いなら、聖印は反応しなかった。拒絶を言わせるのではない。選択を動作で示すだけだ。
セシリアは私の手を両手で包んだ。細い指が強く重なり、離れるどころか近づいてくる。
「離しません」
今度の声は、痛みに削られなかった。
「わたしが選びました。昨夜も、今も」
聴聞室に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、私は初めてセシリアの震えが少しだけ弱まるのを感じた。封じられた言葉の外側にも、意思を置く場所はある。王家が言葉を奪っても、手のぬくもりまでは奪えない。
「記録を」
私は静かに言った。
「聖女候補セシリア・ルミエールは、王太子殿下への拒絶を言葉にしようとした際に聖約痕の疼痛を示した。本人はレティシア・ヴァルトローゼの手を離すことを拒み、自ら選んだと明言した」
「令嬢が記録内容を指定する権限はない」
「王宮が事実を削る権限もありません」
聴聞官の口元が固くなる。
王家の使者が一歩前に出た。
「この件は王太子殿下ご本人の確認を経なければならない」
「確認ではなく圧力でしょう」
「殿下はセシリア様の保護者に等しい立場だ」
セシリアの手がまた冷える。
私はその指を包み返した。ここで怒鳴れば、王宮の望む悪役令嬢になる。だから笑う。礼儀正しく、相手が一番腹を立てる形で。
「保護者は、保護対象が痛がる言葉を命じません」
扉の外で足音が止まった。
聴聞官が立ち上がるより早く、重い扉が内側へ開く。
朝の光を背に、金の髪が揺れた。整った顔。選ばれることに慣れた瞳。卒業舞踏会で私を断罪した王太子が、昨日と同じ微笑を浮かべている。
「レティシア。まだ悪役のつもりでいるのか」
セシリアの呼吸が止まる。
私は彼女の前に立ち、破約の薔薇が刻まれた手を静かに上げた。
王太子ユリウス・クラウンハルトが、聖女を取り戻す顔でそこにいた。
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