第7話 夜明けの保護記録
夜明け前の廊下で、ユーリアは誰もいない場所へ礼をした。
私は眠ったふりをしたまま、その背中を見ていた。
近衛はいない。王家の使者もいない。王家の影も、少なくとも私の目には見えない。
それでも彼女は、そこに何かがいるみたいに頭を下げた。
「ユーリア」
呼ぶと、彼女の肩がかすかに動いた。
「はい」
「今、誰に礼をしたの」
セシリアが私の手を握ったまま、長椅子の端で眠っている。起こさないよう、声は抑えた。
ユーリアは振り向かない。
「癖です」
「あなたは、無駄な癖を持つ人には見えないわ」
沈黙が落ちた。
否定はなかった。
「朝までに、答えを用意しておきます」
「今ではなく?」
「今の私は、正確な答えを持っていません」
逃げたのではない。
けれど、渡されたわけでもない。
私はそれ以上追わなかった。今夜、彼女は報告を止めた。私たちを王家へ渡さなかった。その事実は、疑いを消さない代わりに、問い詰める手も止めていた。
セシリアの指が、寝たまま私の指を探す。
私はそっと握り返した。
朝までに用意しなければならない答えは、ユーリアだけのものではない。
私もまた、王宮へ何を持っていくのか決めなければならなかった。
* * *
朝の光が客間へ差し込む頃、学院長は保護記録を机に広げた。
診断書。聖約書の写し。寮母の証言。王家の使者が枢機卿の名を出した時刻。セシリア本人の意思確認。
薄い紙が何枚も重ねられていく。
昨夜、私たちを守った紙の盾だ。
「記録は嘘を嫌う」
学院長が言った。
「都合のよい言い換えも嫌う。レティシア嬢、あなたはセシリア嬢を連れ出したのか」
「いいえ」
私は答えた。
「私は彼女の拒絶を聞き、その後に手を差し出しました」
「差し出した手を、彼女は取った」
「はい」
羽根ペンが走る。
学院長の文字は硬く、迷いがない。
「セシリア嬢」
呼ばれたセシリアは、寝台の端で背を伸ばした。顔色はまだ悪い。喉元の聖印には、夜の間に広がった罅が薄く残っている。
「答えられる範囲でよい。あなたは王宮へ戻る意思があるか」
セシリアの肩が揺れた。
私は手を伸ばしかけて、止める。
昨日、何度も学んだ。
彼女が言う前に支えることは、時に彼女の声を奪う。
「ありません」
細い声だった。
けれど、折れていない。
「わたしは、昨夜、レティシア様の手を選びました。連れ去られたのではありません。王宮へ戻らないと、自分で言いました」
聖印が淡く光る。
セシリアの指が膝の上で震えた。
私は今度こそ、彼女の背へ手を添えた。言葉を言い切った後なら、支えていい。
「よろしい」
学院長は頷く。
「今の言葉を記録する。王宮が混乱状態の発言だと主張しても、学院長、寮母、聖堂医師が聴取した朝の発言として残る」
聖堂医師が小さく息を吐いた。
「聖約痕の痛みは、発言内容と連動しています。拒絶の意思を示すほど痛む。医師として、無理な聴取は禁じると追記します」
「お願いします」
私が頭を下げると、彼は困ったように眉を寄せた。
「公爵令嬢に頭を下げられると、胃が痛みます」
「では、胃薬も診断書に添えましょうか」
場違いなことを言った自覚はあった。
けれどセシリアが、ほんのわずかに笑った。
それだけで、言ってよかったと思った。
* * *
扉の外で、低い声がした。
「レティシア様」
ユーリアだ。
学院長が視線だけで許可を出す。ユーリアは客間へ入り、机の端に折り畳んだ紙を置いた。
「王宮へ向かう道順です」
「あなたが作ったの?」
「はい」
紙には、王立星冠学院から王宮までの道が簡潔に描かれていた。正門から真っ直ぐ向かう道には、細い斜線が入っている。裏門から東の通りへ抜ける線には、丸が付けられていた。
「正門は避けます。昨夜の報告が止まったため、王宮は詳細を知りません。だからこそ、正門に人を置きます。あなた方が動いた瞬間、見せ物にするためです」
「見せ物」
セシリアが呟く。
その声は、怯えよりも嫌悪に近かった。
「断罪舞踏会の続きにしたいのでしょう」
私が言うと、ユーリアは目を伏せた。
「はい」
短い肯定。
彼女は王家の手を知っている。だから、こちらの傷口も正確に言い当てる。
痛い。
でも、役に立つ。
「助かります」
私が言うと、ユーリアの指がわずかに止まった。
「報告です」
「ええ。あなたが私に報告することを選んだ。だから助かります」
ユーリアは何も言わなかった。
ただ、紙の端を押さえる指がわずかに緩んだ。
「王宮で想定される言い換えは三つです」
彼女は続ける。
「一つ。誘拐。二つ。聖女候補の混乱。三つ。断罪された令嬢による聖女魔法の妨害」
「三つ目は、もう作られているのね」
「はい。聖女候補が王太子殿下を拒んだ理由を、あなたの異能のせいにするはずです」
破約の薔薇。
私の左手首が、返事をするように熱を持った。
王家にとっては便利な言葉だ。セシリアが自分の意思で拒んだと認めるより、悪役令嬢の怪しい力に惑わされたとした方が、ずっと扱いやすい。
「ならば、記録の順番が大切です」
私は机の紙を並べ替えた。
「まず診断書。次に保護記録。次にセシリア様の朝の発言。最後に聖約書の写し」
「聖約書は最後に?」
学院長が問う。
「最初に出せば、王家は紙の正当性を争います。最後に出せば、彼らは先にセシリア様の体調と意思を否定しなければならない」
私の声は冷えていた。
王太子妃になるために覚えた社交戦が、こんな形で役立つなんて皮肉だ。
「よろしい」
学院長は保護記録の束を封筒へ入れた。
「王宮へ提出する写しは学院で作る。原本はここに残す」
「原本を学院に?」
「薄い紙の盾は、燃やされなければ盾でいられる」
学院長はそっけなく言った。
私は小さく息を吐く。
この人は、想像していたよりずっと強い。
* * *
支度の時間になった。
寮母が用意してくれた外套を羽織ると、昨夜の舞踏会用のドレスが急に重く感じられた。王太子妃候補として選ばれるための布。断罪された悪役令嬢として晒されるための布。
今は、そのどちらでもない。
私はセシリアの前に立つ。
「無理はしないで。王宮では、答えられない時は答えないと言ってください」
「答えないことも、選んでいいのですか」
「もちろん」
セシリアは目を伏せた。
「聖女は、誰にも黙ってはいけないと言われていました。困っている人には必ず答えなさいと」
「あなたを困らせる人にまで、答える義務はありません」
そう言うと、セシリアは自分の喉元に触れた。
「では、わたしは今日、黙ることも選びます」
その言葉は小さかった。
けれど私は、どの書類より強い盾を見た気がした。
左手首の薔薇が、また熱を帯びる。
セシリアが気づいた。
「レティシア様、痛むのですか」
「少しだけ」
「わたし、癒やします」
「駄目です」
強く言ってしまった。
セシリアの瞳が揺れる。
まただ。
守ろうとして、声を奪う。
私は息を吸い直し、手を差し出した。
「ごめんなさい。あなたの力を否定したいのではありません。ただ、今のあなたが倒れるのが怖い」
「でも、わたしも、守られているだけは嫌です」
まっすぐな言葉だった。
昨夜より、強い。
私は頷いた。
「なら、ほんの一呼吸だけ」
セシリアは私の左手首に両手をかざした。
淡い光が生まれる。
祈りの匂いがした。白百合のような、朝露のような、清潔で柔らかな光。
その光が薔薇の傷へ触れた瞬間、鋭い痛みが走った。
「っ」
息が漏れた。
セシリアが手を引く。
「ごめんなさい!」
「違う。あなたのせいではありません」
私は手首を押さえた。
痛みはもう引いている。けれど薔薇の紋は、さっきより深い赤になっていた。
聖女の祈りが、私にだけ痛みとして届いた。
その意味を、まだ誰も知らない。
扉の外で馬車の車輪が止まった。
王宮からの迎えが来たのだ。
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