第6話 侍女は誰もいない廊下に礼をする
ユーリアの視線だけが、閉じた扉を離れなかった。
近衛の靴音は遠ざかった。王家の使者も退いた。診察室には、セシリアの浅い息と、聖堂医師が診断書を畳む紙音だけが残っている。
それなのに、ユーリアは廊下の角を見ていた。
「残っているのは近衛ですか」
「いいえ」
即答だった。
「近衛なら、鎧が鳴ります。使者なら、踵を隠しません。廊下の角にいる者は、二歩目から足音を消しました」
学院長の銀の杖が床を打つ。
「女子寮の廊下で、足音を消す必要がある者か」
「あります」
ユーリアは燭台を一つ持ち上げた。
小さな火が、彼女の頬を照らす。黒い瞳は静かで、ひどく遠い。
「王家の影です」
その言葉で、部屋の空気がまた冷えた。
王家の影。
表の近衛ではなく、王家が秘密に使う目と耳。噂では知っていた。けれど、それを見分ける侍女が、私のすぐ隣にいるとは思っていなかった。
「ユーリア」
「お叱りは後で」
彼女は私を見ずに言った。
「今、逃がせば王宮へ報告が入ります。止めます」
扉が開いた。
止める間もなかった。
ユーリアは燭台を手に廊下へ出る。火が床に落とす影が、細い帯になって伸びた。
廊下の角で、人影が動く。
近衛の上着を着ている。けれど鎧はない。腰の剣も飾りだ。男は壁際の影に半身を沈め、こちらを見ていた。
「ナイトレイン」
男が低く呼んだ。
その一言で、セシリアが私の袖を握る。
私は息を止めた。
ユーリアの名を、彼は知っている。
「任務を忘れたか」
「忘れておりません」
ユーリアの声は平らだった。
「私の任務は、レティシア様をお守りすることです」
「言葉を変えるな」
男の指が懐へ滑る。
その瞬間、ユーリアが燭台を傾けた。
火が揺れ、男の影が床に濃く落ちる。
ユーリアの靴先が、その影を踏んだ。
「動くな」
静かな命令だった。
男の体が止まった。
剣に触れた指も、息を吸う肩も、壁へ逃げようとする膝も、すべて途中で縫い止められたみたいに固まる。
影縫い。
舞踏会の夜、近衛の動きを止めた術だ。けれど近くで見ると、もっと異様だった。紐も鎖もない。ただ影を踏まれただけで、人が動けなくなる。
ユーリアは男の懐から黒い封蝋の紙片を抜き取った。
「返せ」
「女子寮の廊下に持ち込むものではありません」
彼女は紙片を開き、目だけを動かす。
私は横から覗いた。
短い文だった。
聖女候補、発声回復。王太子拒絶の意思あり。破約の薔薇、再発。監視対象、王命に抵抗。
胸の奥が冷たくなる。
「監視対象とは、私ですか」
男は答えない。
代わりにユーリアが、紙片を握り潰した。
「はい」
ためらいのない返事だった。
それが、かえって痛かった。
知らなかったわけではない。王家が私を見張っていることくらい、断罪された時点で覚悟していた。
でも、紙に書かれた自分は人間ではなかった。
婚約者でも、公爵令嬢でも、悪役令嬢ですらない。
ただの対象。
「学院長」
ユーリアが振り返る。
「この者を正式に捕らえれば、王家は存在を認めません。女子寮で近衛を拘束したとだけ言われます」
「では、どうする」
「報告を止めます」
ユーリアは紙片を燭台の火へ近づけた。
黒い封蝋が溶け、紙が端から燃える。小さな灰が廊下へ落ちた。
「朝まで、王宮は今夜の詳細を知りません」
男の目に怒りが浮かぶ。
「裏切るのか」
「私は、レティシア様の侍女です」
同じ答え。
けれど今度は、少しだけ違って聞こえた。
言い訳ではない。
彼女が自分に言い聞かせている言葉にも聞こえた。
ユーリアが靴先を外すと、男の体が解けたように動いた。彼は壁に手をつき、荒く息を吐く。
「明け方には代わりが来る」
「その頃には学院長の保護記録が完成しています」
「おまえも記録されるぞ、ナイトレイン」
「結構です」
男はそれ以上言わず、廊下の闇へ消えた。
追う者はいない。
追えば、こちらの足跡が残る。今夜、私たちは何度も薄い紙の盾で命を守った。ならば、その紙を自分から破るわけにはいかない。
扉が閉まる。
今度こそ、診察室に沈黙が落ちた。
「ユーリア」
私は彼女の名を呼んだ。
「あなたは、王家の影を知っているのね」
「はい」
「王家に、私を監視するよう命じられていた?」
「はい」
セシリアの手が震えた。
ユーリアは膝を折らない。言い訳もしない。ただ、私の前に立っている。
「今も?」
そこだけ、返事が遅れた。
「命令は残っています」
「あなたの意思は」
ユーリアの睫毛が、ほんのわずかに伏せられた。
「今夜は、あなたを王家へ渡しません」
「今夜だけ?」
「先のことを、軽く誓えば嘘になります」
正直だ。
ひどいくらいに。
私の中で、怒りと安心が絡まった。彼女は私を見張っていた。けれど彼女がいなければ、私たちは大広間で捕まっていたかもしれない。今も、報告は王宮へ届いていた。
信じたい。
信じきれない。
その両方がある。
「では、条件を出します」
私は手袋の指先を整えた。
「一つ。今後、王家の影と接触したら、私に報告すること」
「承知しました」
「二つ。セシリア様の近くで、私に隠して術を使わないこと」
「承知しました」
「三つ」
私は息を吸う。
「あなたが私を選べない日は、私の前から去りなさい。私は、誰かを命令で縛りたくない」
ユーリアの顔が、初めて揺れた。
それは驚きだったのか、痛みだったのか、分からない。
「それは、命令ですか」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「お願いです」
セシリアが私を見た。
そして、まだ震える声で言う。
「わたしからも、お願いします。今夜、そばにいてください。怖いです。でも、あなたが守ってくれたのも、本当だから」
ユーリアは、セシリアを見た。
長い沈黙の後、深く頭を下げる。
「承知しました」
学院長が低く息を吐いた。
「話はまとまったな。ならば部屋を移す。セシリア嬢は診察室の隣の客間へ。レティシア嬢は負傷者として同室の長椅子を使いなさい。侍女は扉の前だ」
「私も同室でよろしいのですか」
「診断上、離す方が危険だ。そういうことにしておく」
学院長の声はそっけない。
けれど、そのそっけなさがありがたかった。
セシリアが小さく息を吐く。私の袖を掴む指に、ほんの少しだけ力が戻った。
「レティシア様」
「はい」
「朝まで、手を握っていてもいいですか」
王太子への拒絶より、小さな願い。
けれど今の彼女には、それも選択だった。
「もちろん」
私が答えると、セシリアは泣きそうな顔で笑った。
その夜、客間の窓の外では、夜明け前の空が薄く白み始めていた。
セシリアは長椅子の端で眠り、私は彼女の手を握ったまま、浅い眠りに落ちかける。
扉の外で、布が擦れる音がした。
目を開けると、細く開いた扉の隙間から、ユーリアの背中が見えた。
彼女は廊下に一人で立っている。
誰もいない。
近衛も、使者も、王家の影もいない。
それなのにユーリアは、空の廊下へ静かに一礼した。
まるで、そこに見えない主がいるみたいに。
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