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第5話 診断書は王命より重い

 近衛の靴音が、廊下の奥で数を増やしていく。


 学院女子寮の診察室は狭い。扉の外に王家の使者が二人。廊下には近衛。室内にはセシリア、ユーリア、そして私。


 逃げ場はない。


 けれど、負けが決まったわけではない。


「レティシア様」


 セシリアが私の手を握った。


 喉元の聖印は、さっきより罅が深い。彼女が「戻りません」と言った瞬間に広がった罅だ。


「大丈夫」


「あなたは、もう戻らないと選びました。次は私が、その選択を守ります」


 扉の外から、王家の使者が声を張る。


「近衛が到着しました。これ以上の抵抗は、学院への王命妨害と見なされます」


「抵抗ではありません」


 私は答えた。


「診断の途中です」


「王命が優先されます」


「命に関わる診断よりも?」


 沈黙。


 その沈黙が、相手の弱点だった。


 王家は聖女候補を国の宝として扱う。ならば、その国の宝が体調不良を訴えている時、無理に連れていくと言えば矛盾する。


 聖女を大切にしているという看板を、自分で壊すことになるからだ。


「聖堂医師」


 私は振り返った。


「診断書を書いていただけますか。セシリア様には聖約痕の異常、発声時の疼痛、拒絶反応による魔力不調がある。今夜の移動と王宮での聴取は危険である、と」


 聖堂医師は唇を引き結んだ。


 迷っている。


 無理もない。彼は教会に属する医師だ。今ここで私に従えば、王家と教会の両方を敵に回す。


 それでも彼は、セシリアの喉元を見た。


 罅の入った聖印。青ざめた頬。痛みをこらえる指。


 医師として、それを見なかったことにはできなかったのだろう。


「診断書を書きます」


 寮母が胸を押さえた。


 私は頭を下げる。


「感謝します」


「感謝されることではありません。これは医師の仕事です」


 聖堂医師は震える手で鞄を開き、紙を取り出した。羽根ペンが走る音が、剣の音より頼もしく聞こえた。


「診断書一枚なら、後でどうとでも扱える」


 扉の向こうで使者が言った。


 私は笑った。


「では、一枚では済まない形にしましょう」


 机の上に燭台を戻す。ユーリアが消した火はまだ煙を上げていた。私は寮母に目を向ける。


「学院長は?」


「使いを出しました。すぐに」


 言い終わる前に、廊下の向こうから別の足音がした。


 近衛の重い靴ではない。杖の先が床を打つ音だ。


「この夜更けに、女子寮の前で何をしている」


 老いた声が響いた。


 その一言で、廊下の空気が変わる。


 学院長だ。


 私は扉を開けた。


 白髪の学院長は寝間着に長衣を羽織り、銀の杖を持って立っていた。後ろに近衛が並び、王家の使者が眉をひそめる。


「夜分にお騒がせしております、学院長」


「事情は寮母から聞いた。王家は、私の学院の女子寮へ武装した近衛を入れるつもりか」


 使者の顔が強張った。


「王命です」


「王命であれば、女子寮の扉を蹴破ってよいと?」


「そのようなことは」


「ならば廊下で待ちなさい」


 短い言葉だった。


 それだけで近衛たちが一歩止まる。


 学院長は王族ではない。けれど生徒保護に関しては、王家も教会も形式上は彼を無視できない。


 形式。私は今夜、その弱い盾に何度も命を預けている。


 礼儀。診断書。立ち会い。学院長の権限。


 どれも薄い紙の盾だ。でも重ねれば、刃を一瞬止めることができる。


「レティシア・ヴァルトローゼ」


 学院長が私を見る。


「あなたは断罪された身で、聖女候補をここへ連れてきた。事実か」


「事実です。ただし連れ去ったのではありません。セシリア様はご自身の意思で、王宮へ戻らないと述べました」


 学院長の視線がセシリアへ移る。


 セシリアは私の後ろに隠れず、震えながら一歩だけ前へ出た。


「わたしは、今夜は王宮へ戻りません。診断を受けたいです。自分の喉に何が起きているのか、知りたいです」


 声は細い。


 それでも、廊下に届いた。


 使者が口を開きかける。


 学院長の杖が床を打った。


「黙りなさい。私は彼女に聞いている」


 その瞬間、セシリアの肩から力が抜けた。


 彼女の言葉を途中で奪わない。ただそれだけが、奇跡みたいに見えた。


「よろしい」


 学院長は頷いた。


「聖堂医師、診断は」


「聖約痕に異常があります。拒絶の言葉に反応して疼痛と魔力不調が出ています。今夜の移動と聴取は危険です」


「診断書は」


「ここに」


 聖堂医師が紙を差し出した。


 学院長はそれを読み、王家の使者へ向ける。


「診断書が出た。セシリア・ルミエール嬢は今夜、学院女子寮で保護する。王宮への移送は認めない」


「学院長。これは王太子殿下の」


「王太子殿下が、聖女候補の健康を損ねる命令を下したと記録してよいのか」


 使者が黙った。


 今夜二度目の沈黙。


 私はそれを見逃さなかった。


「加えて、先ほど使者殿は枢機卿猊下の名を出されました」


 使者の目が、こちらへ跳ねる。


「私は確かに聞きました。聖女候補の身柄引き渡しに、王家だけでなく星冠教会が関与している可能性があります。であれば、王家、学院、教会の三者で記録を残すべきです」


「あなたにその権限はない」


「私にはありません」


 私は学院長を見る。


「ですが学院長には、生徒保護のために記録を残す権限がおありでしょう」


 学院長の眉がわずかに上がる。


 試されている。


 断罪された令嬢が、感情ではなく理屈で立っているのか。


「私の名は、いくらでも汚していただいて構いません。ですが、セシリア様が自分で言った言葉だけは、誰かの魔法や混乱として処理させません」


 セシリアの指が、そっと私の袖に触れた。


「わたしも、記録してほしいです」


 彼女が言う。


「わたしは、殿下の隣へ戻りたくありません。今夜は、ここにいたいです」


 聖印が光る。


 けれどさっきより痛みは弱いようだった。セシリアは膝を折らない。自分の声で、最後まで言い切った。


 左手首の薔薇が熱を帯びる。


 罅がまた一つ広がる気配がした。


「決まりだ」


 学院長が言った。


「今夜、セシリア嬢は学院で保護する。レティシア嬢も、聖約痕に関わる負傷者としてこの場に留める。王家には、朝一番で正式な診断書と保護記録を提出する」


 使者は深く息を吸った。


「王太子殿下は納得なさらない」


「それは王太子殿下と私の話だ」


 学院長は杖を鳴らした。


「近衛を下げなさい。ここは女子寮だ」


 使者はしばらく動かなかった。


 やがて、低く礼をする。


「明朝、王宮への出頭命令が下ります」


「承知しました」


 私は答えた。


「その時は、診断書と記録を持参いたします」


 使者は私を睨み、背を向けた。


 近衛の靴音が遠ざかる。


 扉が閉まった瞬間、セシリアの体から力が抜けた。


 私は慌てて支える。


 今度は、彼女も遠慮しなかった。私の腕に額を寄せ、小さく息を吐く。


「言えました」


「ええ」


「怖かったです」


「ええ」


「でも、レティシア様が、聞いてくれたから」


 私は返事に詰まった。


 王太子妃になるために覚えた礼儀も、社交辞令も、こういう時には役に立たない。


 だから正直に言った。


「私も怖かったわ」


 セシリアが顔を上げる。


 涙の瞳が、わずかに丸くなる。


「レティシア様も?」


「もちろん。膝が笑いそうでした」


 セシリアの唇が、小さく震えた。


 泣くのかと思った。


 でも違った。


 彼女は、わずかに笑った。


 その笑みは弱く、今にも消えそうだったけれど、たしかに彼女自身のものだった。


 私はその笑顔を見て、ようやく息を吐く。


 学院長が咳払いをした。


「感動しているところ悪いが、朝まで時間はない。王宮への出頭命令が出るなら、こちらも準備をする」


「はい」


 私は頷く。


 机の上には診断書。


 胸元には聖約書の写し。


 隣には、自分で戻らないと選んだ聖女候補。


 武器はそろった。


 けれど扉の外、遠ざかったはずの靴音が一つ、廊下の角で止まっていた。


 ユーリアが、そちらへ視線を向ける。


「まだ、一人残っています」


 夜は終わらない。


 そして私たちは、まだ誰が味方で誰が敵なのかも知らない。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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