第10話 あなたの屋敷へ行きたい
縄の端を、教会が引いた。
王宮聴聞室の扉が開き、白い祭服の男が入ってくる。胸元では星冠の銀飾りが揺れ、歩くたびに細い鈴の音がした。祈りの音のはずなのに、セシリアの肩は小さく跳ねた。
教会代理人は王太子に礼をし、次に聴聞官へ紙筒を差し出した。
「枢機卿ベネディクト猊下の命により、聖女候補セシリア・ルミエールの身柄を星冠教会へ移送いたします。聖約痕の異常は教会管轄です」
聴聞官の顔色が変わる。
王家の使者が声を荒げた。
「ここは王宮だ。聖女候補は殿下の保護下にある」
「その保護下で聖約痕が悪化したと、先ほど報告を受けております」
静かな返答だった。
けれど刃のように鋭い。
ユリウスの口元から余裕が消えた。王家と教会は同じ側に見えていた。だが同じ獲物を前にした時、同じ側でいられるとは限らない。
私はセシリアの体を支えたまま、紙筒を見る。
「書面を確認しても?」
「公爵令嬢に閲覧権限はありません」
「では、聖堂医師に」
教会代理人の指が止まった。
聖堂医師は一礼し、紙筒を受け取る。封蝋には星冠教会の印。開かれた羊皮紙には、整いすぎた文字が並んでいた。
「星冠移送令です」
聖堂医師の声が硬くなる。
「聖女候補の聖約痕異常を教会本部で精査するため、本人を即時移送する。発行時刻は夜明け前」
夜明け前。
まだ王宮聴聞が始まる前だ。
まだ、セシリアがここで痛みに耐える前だ。
私は笑わなかった。笑えば、怒りがこぼれる。
「ずいぶん早いご判断ですこと」
「教会は聖女候補の危機に迅速に対応します」
「危機の内容を確認する前に?」
教会代理人は答えない。
書記の羽ペンが紙に触れたまま止まっている。聴聞官はその手元を見たが、記録を止めろとは言わなかった。
ユリウスが一歩前へ出る。
「セシリアを教会へ渡すとは言っていない」
「殿下の許可は、教会管轄の診察に必須ではありません」
「彼女は僕の」
言葉が途中で止まった。
先ほどの「国のもの」という発言が、まだ部屋の中に残っている。もう一度所有を口にすれば、王太子自身が聴聞記録にさらに傷を増やす。
私はその沈黙を逃さない。
「聖堂医師」
「現時点での移送は危険です。連続した聖約痕疼痛、魔力不調、発声時の負荷。馬車での移動に耐えられる状態ではありません」
「王宮から教会までは近い」
教会代理人が言う。
「距離の問題ではありません。本人が強い拒否反応を示す対象へ近づけること自体が症状を悪化させる恐れがあります」
「医師が教会命令を拒むのですか」
「患者を壊せという命令なら、拒みます」
聖堂医師の手が震えていた。
それでも、紙筒を握る指は離れない。
セシリアが小さく息を吐く。私の腕の中で、彼女はまだ立っていた。倒れそうなのに、膝を折らない。
「セシリア様」
私は耳元ではなく、正面から呼んだ。
「答えなくていい問いには、答えなくていいわ」
「でも」
「それは、あなたが選ぶことよ」
セシリアの睫毛が揺れた。
その言葉を聞くたびに、彼女は痛みの中で自分の手を探す。誰かの命令ではなく、自分の指の形を確かめるように。
「教会へ、行きたいですか」
聖印が淡く光る。
セシリアは喉元を押さえた。拒絶の言葉はまだ棘になる。ならば、別の言い方を探せばいい。
「今は、行けません」
細い声だった。
だが、部屋の奥まで届いた。
「祈ることも、治すことも、嫌いになりたくありません。だから、今は教会へ行けません」
教会代理人の眉が動く。
「聖女候補が教会を拒むのですか」
「拒ませたのは、あなた方です」
私の声が落ちる。
「祈りを檻にしたのは、教会でしょう」
白い祭服の男が初めて私を見る。
その目には怒りより先に計算があった。公爵令嬢をここで罪人にするか。王太子の前で対立を深めるか。記録の前で沈黙するか。彼もまた、紙の上の損得を数えている。
その時、廊下から杖の音がした。
硬い音が三度。
扉の向こうの空気が、別の権限を連れてくる。
「聴聞の中止を求める」
学院長が入室した。
手には学院の封蝋が押された書類束がある。後ろには寮母の姿もあった。目を伏せているが、両手で抱えた外套は明らかにセシリアのものだ。
「学院長。ここは王宮だ」
ユリウスが言う。
「承知しております。ですので、王宮の記録に残る形で申し上げます」
学院長は聴聞官へ書類を差し出した。
「王立星冠学院は、在籍生徒セシリア・ルミエールの保護を継続します。ただし学院女子寮は昨夜、王家の使者と近衛、ならびに不明な監視対象に接近されました。生徒の安全を確保できません」
不明な監視対象。
王家の影のことだ。
ユリウスの視線がユーリアへ走る。ユーリアは伏せ目のまま動かない。
「よって一時保護先を、ヴァルトローゼ王都邸へ変更する」
聴聞室がざわめいた。
王家の使者が口を開くより早く、学院長は続ける。
「同邸は四大公爵家の管理下にあり、王宮でも教会でもない。聖堂医師の診察は継続。学院長、寮母、聖堂医師の三者が日次記録を作成する。原本は学院で保管する」
「被疑者の屋敷へ保護対象を移すなど」
教会代理人が言う。
「被疑者と断じた記録は、まだ存在しません」
学院長の銀の杖が床を打った。
「存在しない罪で、生徒の身柄を動かすことは認めません」
私は息を吸った。
学院長は味方ではない。学院の責任者だ。だから強い。感情ではなく、責任でこの場に立っている。
セシリアが顔を上げる。
「レティシア様」
「はい」
「わたし、あなたの屋敷へ行きたいです」
言った。
痛みは走った。喉元の聖印が赤く締まり、セシリアの体が私へ傾く。
それでも、その言葉は壊れなかった。
「教会ではなく、王宮でもなく、あなたのそばで休みたいです」
私の胸の奥で、何かがほどけた。
選ばれることだけが価値だと教えられてきた人生で、初めて、選ばれることが怖くなかった。
私はセシリアの手を包む。
「受け入れます。ヴァルトローゼの名にかけて、あなたを守ります」
「令嬢」
ユリウスが低く呼ぶ。
「その一言が、王家への反逆になると分かっているのか」
「いいえ」
私は静かに首を横に振った。
「これは生徒保護であり、医師の移送不可所見であり、本人の選択です。反逆と呼ぶなら、反逆の定義を王宮記録にお書きくださいませ」
聴聞官の喉が鳴った。
書記はもう、羽ペンを止めなかった。
教会代理人が星冠移送令を取り戻そうと手を伸ばす。聖堂医師はそれを一瞬だけ遅らせ、写しを取るために書記へ渡した。
ほんの一瞬。
だが紙の戦では、その一瞬が逃げ道になる。
* * *
王宮の裏手へ出ると、初夏の光がまぶしかった。
セシリアは寮母の外套に包まれ、私の腕に体重を預けている。王宮の石畳は硬く、馬車までの短い距離さえ長く感じた。
「重くありませんか」
「羽根より軽いわ」
「それは、嘘です」
「では、薔薇の花束くらい」
セシリアが泣きそうな顔で笑った。
その笑顔を見た瞬間、私はやっと自分の手が震えていることに気づく。
ユーリアが馬車の扉を開け、低く告げた。
「後方に教会の馬車が一台。距離を取っております」
「尾行?」
「見せるための追跡です」
私はセシリアを馬車へ乗せ、自分も続いた。
窓の外で、白い馬車が朝日に光っている。王家の紋ではない。星冠教会の銀飾りが、祈りの鈴のように揺れていた。
セシリアが私の袖を握る。
「怖いです」
「ええ」
私はその手を握り返した。
「でも、今度は見せ物ではありません。こちらも見ています」
馬車が動き出す。
ヴァルトローゼ王都邸へ向かう車輪の音に、白い馬車の鈴が静かについてきた。
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