第11話 薔薇の客間は檻ではない
白い馬車は、ヴァルトローゼ王都邸の門前で止まった。
鉄柵の向こうに、星冠教会の銀飾りが光っている。鈴は鳴らない。鳴らせない距離で止まっているのだ。祈りのふりをした監視は、門番の視線と公爵家の紋章の前で足を止めた。
私は窓からそれを見て、ようやく息を吐いた。
「門を越える勇気はないようね」
「命令がないだけかと」
ユーリアが淡々と答える。
「教会は、門の外に立つだけでも十分に脅しになると知っています」
セシリアの手が、私の袖を握る。
「見られているのですね」
「ええ」
私はその手に自分の指を重ねた。
「でも、ここから先は私の家です」
馬車の扉が開いた。
初夏の風に、薔薇の香りが混じる。王宮の白い石の冷たさとは違う。土と葉と、水を含んだ匂い。門の内側に並ぶ薔薇は、朝の光を受けて静かに咲いていた。
その景色を見たセシリアが、声を落とす。
「きれい」
「怖くありませんか」
「怖いです。でも、きれいです」
その二つを同時に言えるなら、まだ大丈夫だ。
私はそう思った。
屋敷の玄関では、家令と侍女たちが待っていた。
誰も大げさに騒がない。駆け寄らない。詮索しない。ただ一斉に頭を下げ、私とセシリアの通る道を開ける。
「お帰りなさいませ、レティシア様」
「急な受け入れになります」
「すでに薔薇の客間を整えております。寝台、湯、着替え、軽い食事、診察用の机を用意いたしました」
さすがだった。
王宮では誰もがセシリアを動かそうとしていた。ここでは、彼女を動かさないための準備が先にある。
セシリアの瞳が揺れる。
「わたしのために?」
「あなたのためです」
私は答えた。
「客人を迎えるのは、公爵家の仕事ですから」
「客人」
セシリアはその言葉を、初めて口にする菓子みたいに確かめた。
「わたし、客人なのですか」
「嫌なら、別の言い方にします」
「嫌ではありません。ただ、教会では候補と呼ばれて、王宮では聖女と呼ばれて」
彼女は喉元に触れた。
「人として呼ばれるのが、慣れません」
私の胸が痛んだ。
それでも、謝らない。謝罪より先に必要なのは、今から変えることだ。
「では、慣れてください。ここでは何度でも呼びます。セシリア様」
名前を呼ぶと、セシリアは目を伏せた。
頬に赤みが差す。
王宮で痛みに耐えていた顔とは違う、年相応の少女の表情だった。
薔薇の客間は二階の東側にあった。
淡い薔薇色の壁紙。白い天蓋。窓辺には薄い布がかかり、外の庭と門の影が遠く見える。教会の白い馬車は、角度を変えれば見えない。けれど存在を忘れられるほど遠くもなかった。
私は窓の布を半分だけ引いた。
「見えないようにしますか」
セシリアが首を横に振る。
「完全に見えない方が、怖いです」
「では、半分だけ」
「はい」
半分隠す。
半分残す。
それが今日の最善だった。
侍女が湯気の立つ盆を運んでくる。温めた布、蜂蜜を落とした白湯、柔らかいパン、果実を煮たもの。どれも小さく、胃に負担をかけない。
聖堂医師も遅れて入り、診察用の机に診断書を広げた。
「まず休息です。食事は口に入る分だけ。聖女魔法の使用は禁止。聖約痕への質問も禁止。拒絶語の発声練習など論外です」
「分かっています」
私が答えると、聖堂医師は疑わしそうにこちらを見た。
「あなたにも言っています」
「私にも?」
「あなたは守るために無理をさせがちです」
反論できなかった。
セシリアが、そこで小さく笑う。
「先生、レティシア様は優しいです」
「優しさで患者は倒れます」
「では、倒れないように見張ってください」
「もちろんです」
聖堂医師は真顔で頷いた。
そのやり取りが、妙におかしかった。セシリアの肩から力が抜ける。笑っただけで、彼女の呼吸は少し整った。
私は椅子を引いた。
「座って」
「はい」
セシリアが腰を下ろすと、膝の上で指を絡めた。まだ何かを許されていない子どものように、姿勢だけが固い。
「靴を脱いでもいいのよ」
「え」
「客間ですもの。寝台に上がる前に、まず足を休めましょう」
セシリアは戸惑った顔で自分の靴を見た。
「自分で」
「ええ。できるところまで」
セシリアはゆっくりと身をかがめる。指が震えて、留め具を外せない。
私は待った。
助けたい。
でも、できないところを決めるのはセシリアだ。
やがてセシリアが息を吐いた。
「レティシア様」
「はい」
「片方だけ、手伝ってください」
その言い方が、たまらなく愛おしかった。
全部ではない。
何もかもでもない。
片方だけ。
私は膝を折り、セシリアの靴の留め具に指をかけた。革は冷えていた。足首は細く、昨夜からの疲れで肌が熱い。
「痛くありませんか」
「大丈夫です」
「嘘なら、あとで蜂蜜を没収します」
「それは困ります」
セシリアの声が柔らかくなる。
片方の靴が床に落ちる音は、とても小さかった。
けれど私には、王宮の扉が閉まる音より大きく聞こえた。
* * *
診察が終わる頃、白湯は半分だけ減っていた。
セシリアは寝台の端に座り、肩から薄い掛布をかけられている。髪を解かれたせいで、金の波が背中に落ちていた。
私はその隣に座らず、少し離れた椅子にいた。
近づきすぎれば、守る顔になる。離れすぎれば、見捨てる形になる。どちらでもない距離を探すのは、社交戦より難しい。
「レティシア様」
「はい」
「そこは遠いです」
心臓が跳ねた。
「遠い?」
「でも、近すぎると、わたしが甘えてしまいそうです」
「甘えてはいけない理由がありますか」
セシリアは黙った。
聖印は光らない。これは教会に禁じられた言葉ではない。ただ、彼女の中に長く置かれてきた鎖だ。
「聖女候補は、誰かに甘える前に祈りなさいと言われていました」
「ここは客間です」
「はい」
「祈らなくても、水を飲んでいい場所です」
セシリアの目が潤んだ。
泣かせたいわけではない。けれど泣けるなら、それも休息なのだろう。
私が椅子を動かすと、セシリアは自分から布の端を持ち上げた。
「ここまで、来てください」
寝台の隣。
触れれば体温が分かる距離。
私は腰を下ろした。セシリアはしばらく迷い、それから肩を寄せてくる。軽い重みが腕に触れた。
外では教会の馬車が待っている。
王宮では聴聞記録が作られている。
学院では原本が守られている。
その全部の上に、今はこの小さな重みがあった。
「眠っても、いいですか」
「もちろん」
「起きたら、ここにいますか」
「います」
「王宮に戻されませんか」
「戻しません」
即答だった。
セシリアは目を閉じる。けれどすぐに開いた。
「教会にも?」
「行かせません」
「わたしが、自分で行きたいと言うまでは?」
私は息を止めた。
いい問いだった。
守る側にとって、一番痛い問いだ。
「あなたが自分で行きたいと言うなら、私は理由を聞きます。止めるかどうかは、その後に考えます」
「止めることも、あるのですね」
「あります。あなたが自分を差し出すために行くなら、止めます」
「わたしが、選んでも?」
「選択と自己犠牲は違います」
セシリアはその言葉を胸の内で転がすように黙った。
やがて、指先が私の袖から手袋へ移る。
「では、今日は選びます」
「何を?」
「眠ることを」
私は微笑んだ。
「よい選択です」
セシリアの睫毛が伏せられる。
体温が腕に移る。呼吸がゆっくり落ちていく。王宮で何度も途切れた声が、眠りの中ではもう誰にも遮られない。
私は動かなかった。
悪役令嬢として断罪された夜から、ずっと走ってきた。走って、交渉して、記録を積んで、言葉を選んできた。
今は、動かないことが守ることだった。
扉の外で布が擦れる音がする。
ユーリアだ。
「レティシア様」
低い声が扉越しに届いた。
「教会馬車は門前で待機。加えて、向かいの屋根に王家の影が一名」
私は眠るセシリアを見下ろした。
その手は、まだ私の手袋をつかんでいる。
「見ていなさい」
私は声を抑えて答えた。
「こちらも、眠らずに見ています」
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