表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/49

第11話 薔薇の客間は檻ではない

 白い馬車は、ヴァルトローゼ王都邸の門前で止まった。


 鉄柵の向こうに、星冠教会の銀飾りが光っている。鈴は鳴らない。鳴らせない距離で止まっているのだ。祈りのふりをした監視は、門番の視線と公爵家の紋章の前で足を止めた。


 私は窓からそれを見て、ようやく息を吐いた。


「門を越える勇気はないようね」


「命令がないだけかと」


 ユーリアが淡々と答える。


「教会は、門の外に立つだけでも十分に脅しになると知っています」


 セシリアの手が、私の袖を握る。


「見られているのですね」


「ええ」


 私はその手に自分の指を重ねた。


「でも、ここから先は私の家です」


 馬車の扉が開いた。


 初夏の風に、薔薇の香りが混じる。王宮の白い石の冷たさとは違う。土と葉と、水を含んだ匂い。門の内側に並ぶ薔薇は、朝の光を受けて静かに咲いていた。


 その景色を見たセシリアが、声を落とす。


「きれい」


「怖くありませんか」


「怖いです。でも、きれいです」


 その二つを同時に言えるなら、まだ大丈夫だ。


 私はそう思った。


 屋敷の玄関では、家令と侍女たちが待っていた。


 誰も大げさに騒がない。駆け寄らない。詮索しない。ただ一斉に頭を下げ、私とセシリアの通る道を開ける。


「お帰りなさいませ、レティシア様」


「急な受け入れになります」


「すでに薔薇の客間を整えております。寝台、湯、着替え、軽い食事、診察用の机を用意いたしました」


 さすがだった。


 王宮では誰もがセシリアを動かそうとしていた。ここでは、彼女を動かさないための準備が先にある。


 セシリアの瞳が揺れる。


「わたしのために?」


「あなたのためです」


 私は答えた。


「客人を迎えるのは、公爵家の仕事ですから」


「客人」


 セシリアはその言葉を、初めて口にする菓子みたいに確かめた。


「わたし、客人なのですか」


「嫌なら、別の言い方にします」


「嫌ではありません。ただ、教会では候補と呼ばれて、王宮では聖女と呼ばれて」


 彼女は喉元に触れた。


「人として呼ばれるのが、慣れません」


 私の胸が痛んだ。


 それでも、謝らない。謝罪より先に必要なのは、今から変えることだ。


「では、慣れてください。ここでは何度でも呼びます。セシリア様」


 名前を呼ぶと、セシリアは目を伏せた。


 頬に赤みが差す。


 王宮で痛みに耐えていた顔とは違う、年相応の少女の表情だった。


 薔薇の客間は二階の東側にあった。


 淡い薔薇色の壁紙。白い天蓋。窓辺には薄い布がかかり、外の庭と門の影が遠く見える。教会の白い馬車は、角度を変えれば見えない。けれど存在を忘れられるほど遠くもなかった。


 私は窓の布を半分だけ引いた。


「見えないようにしますか」


 セシリアが首を横に振る。


「完全に見えない方が、怖いです」


「では、半分だけ」


「はい」


 半分隠す。


 半分残す。


 それが今日の最善だった。


 侍女が湯気の立つ盆を運んでくる。温めた布、蜂蜜を落とした白湯、柔らかいパン、果実を煮たもの。どれも小さく、胃に負担をかけない。


 聖堂医師も遅れて入り、診察用の机に診断書を広げた。


「まず休息です。食事は口に入る分だけ。聖女魔法の使用は禁止。聖約痕への質問も禁止。拒絶語の発声練習など論外です」


「分かっています」


 私が答えると、聖堂医師は疑わしそうにこちらを見た。


「あなたにも言っています」


「私にも?」


「あなたは守るために無理をさせがちです」


 反論できなかった。


 セシリアが、そこで小さく笑う。


「先生、レティシア様は優しいです」


「優しさで患者は倒れます」


「では、倒れないように見張ってください」


「もちろんです」


 聖堂医師は真顔で頷いた。


 そのやり取りが、妙におかしかった。セシリアの肩から力が抜ける。笑っただけで、彼女の呼吸は少し整った。


 私は椅子を引いた。


「座って」


「はい」


 セシリアが腰を下ろすと、膝の上で指を絡めた。まだ何かを許されていない子どものように、姿勢だけが固い。


「靴を脱いでもいいのよ」


「え」


「客間ですもの。寝台に上がる前に、まず足を休めましょう」


 セシリアは戸惑った顔で自分の靴を見た。


「自分で」


「ええ。できるところまで」


 セシリアはゆっくりと身をかがめる。指が震えて、留め具を外せない。


 私は待った。


 助けたい。


 でも、できないところを決めるのはセシリアだ。


 やがてセシリアが息を吐いた。


「レティシア様」


「はい」


「片方だけ、手伝ってください」


 その言い方が、たまらなく愛おしかった。


 全部ではない。


 何もかもでもない。


 片方だけ。


 私は膝を折り、セシリアの靴の留め具に指をかけた。革は冷えていた。足首は細く、昨夜からの疲れで肌が熱い。


「痛くありませんか」


「大丈夫です」


「嘘なら、あとで蜂蜜を没収します」


「それは困ります」


 セシリアの声が柔らかくなる。


 片方の靴が床に落ちる音は、とても小さかった。


 けれど私には、王宮の扉が閉まる音より大きく聞こえた。


* * *


 診察が終わる頃、白湯は半分だけ減っていた。


 セシリアは寝台の端に座り、肩から薄い掛布をかけられている。髪を解かれたせいで、金の波が背中に落ちていた。


 私はその隣に座らず、少し離れた椅子にいた。


 近づきすぎれば、守る顔になる。離れすぎれば、見捨てる形になる。どちらでもない距離を探すのは、社交戦より難しい。


「レティシア様」


「はい」


「そこは遠いです」


 心臓が跳ねた。


「遠い?」


「でも、近すぎると、わたしが甘えてしまいそうです」


「甘えてはいけない理由がありますか」


 セシリアは黙った。


 聖印は光らない。これは教会に禁じられた言葉ではない。ただ、彼女の中に長く置かれてきた鎖だ。


「聖女候補は、誰かに甘える前に祈りなさいと言われていました」


「ここは客間です」


「はい」


「祈らなくても、水を飲んでいい場所です」


 セシリアの目が潤んだ。


 泣かせたいわけではない。けれど泣けるなら、それも休息なのだろう。


 私が椅子を動かすと、セシリアは自分から布の端を持ち上げた。


「ここまで、来てください」


 寝台の隣。


 触れれば体温が分かる距離。


 私は腰を下ろした。セシリアはしばらく迷い、それから肩を寄せてくる。軽い重みが腕に触れた。


 外では教会の馬車が待っている。


 王宮では聴聞記録が作られている。


 学院では原本が守られている。


 その全部の上に、今はこの小さな重みがあった。


「眠っても、いいですか」


「もちろん」


「起きたら、ここにいますか」


「います」


「王宮に戻されませんか」


「戻しません」


 即答だった。


 セシリアは目を閉じる。けれどすぐに開いた。


「教会にも?」


「行かせません」


「わたしが、自分で行きたいと言うまでは?」


 私は息を止めた。


 いい問いだった。


 守る側にとって、一番痛い問いだ。


「あなたが自分で行きたいと言うなら、私は理由を聞きます。止めるかどうかは、その後に考えます」


「止めることも、あるのですね」


「あります。あなたが自分を差し出すために行くなら、止めます」


「わたしが、選んでも?」


「選択と自己犠牲は違います」


 セシリアはその言葉を胸の内で転がすように黙った。


 やがて、指先が私の袖から手袋へ移る。


「では、今日は選びます」


「何を?」


「眠ることを」


 私は微笑んだ。


「よい選択です」


 セシリアの睫毛が伏せられる。


 体温が腕に移る。呼吸がゆっくり落ちていく。王宮で何度も途切れた声が、眠りの中ではもう誰にも遮られない。


 私は動かなかった。


 悪役令嬢として断罪された夜から、ずっと走ってきた。走って、交渉して、記録を積んで、言葉を選んできた。


 今は、動かないことが守ることだった。


 扉の外で布が擦れる音がする。


 ユーリアだ。


「レティシア様」


 低い声が扉越しに届いた。


「教会馬車は門前で待機。加えて、向かいの屋根に王家の影が一名」


 私は眠るセシリアを見下ろした。


 その手は、まだ私の手袋をつかんでいる。


「見ていなさい」


 私は声を抑えて答えた。


「こちらも、眠らずに見ています」


ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ