第12話 二通の命令書
夜明けは、薔薇の客間の窓を白くした。
セシリアはまだ眠っている。
細い指は私の手袋をつかんだままで、眠りの底でも離すことを怖がっているようだった。王宮で封じられた拒絶の言葉は、眠っている時だけ喉を締めない。呼吸は浅いが、途切れてはいない。
私は椅子に座ったまま、動かなかった。
腕はしびれている。
けれど、これは痛みではない。
誰かが安心して眠るために預けてくれた重みだ。
扉の外で、布の擦れる音がした。
「レティシア様」
ユーリアの声は低い。
眠るセシリアを起こさないためだけではない。廊下の向こう、窓の外、屋根の上、そのすべてに聞かせる声を選んでいる。
「門前の教会馬車は動いておりません。向かいの屋根の影も同じ位置です」
「一晩中?」
「はい。交代は一度。王家の影は二名いると見てよろしいかと」
王家は屋根から見張り、教会は門前で祈るふりをする。
どちらも、セシリアを心配している顔ではない。
私は眠る少女の指を見下ろした。
「報告を受け取る手も、命令を出す手も別々ね」
「同じ目的に見えても、同じ主人ではありません」
その言葉の直後、廊下の奥で足音が止まった。
家令が扉の前で一礼する気配がある。
「お嬢様。王宮より使者が一名。星冠教会より使者が一名。どちらも至急の書面を持参しております」
来た。
早すぎるほどではない。
むしろ、遅いくらいだ。
二つの縄は、夜明けまでに結び直されていたのだ。
「応接室へ」
「お通ししてよろしいのですか」
「同じ部屋には入れないで。廊下の向かい合わせで待たせて」
家令がわずかに息をのむ。
「互いの存在が見える位置に。こちらが隠していないと分かる距離に置いて」
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
セシリアの睫毛が震えた。
「レティシア様」
「起こしてしまった?」
「いいえ。夢の中でも、馬車の鈴が聞こえていました」
セシリアは目を開け、しばらく天蓋を見つめた。
「また、誰かが来たのですね」
「王宮と教会から、それぞれ書面が来ました」
セシリアの手が喉元へ行く。
私はその手を止めない。ただ、自分の手を近くに置く。
「今すぐ答えなくていいわ」
「でも、わたしのことです」
「ええ。だから、あなたが読める状態になってから読ませます」
セシリアは唇を結び、それでも目をそらさなかった。
「読めます」
その一言が、眠りより重かった。
* * *
二通の命令書は、同じ銀盆の上に置かれた。
王宮の封蝋は赤い。
星冠教会の封蝋は白い。
色は違うのに、どちらも紙の上でセシリアを動かそうとしている。
私はまず王宮の書面を開いた。
内容は予想どおりだった。
聖女候補を不当に私邸へ移した疑い。王宮聴聞の継続。本人確認のため、セシリアを王宮へ再出頭させること。ヴァルトローゼ家が拒む場合、公爵家による聖女誘拐として扱う可能性。
セシリアの肩がこわばる。
私は声を平らに保った。
「次に教会です」
白い封蝋の書面には、別の命令があった。
聖約痕異常の精査。教会医療室への即時移送。王宮聴聞による精神負荷を避けるため、王家の関与を最小限にすること。星冠教会の管轄を妨げる者は、聖約妨害として記録すること。
部屋の空気が止まった。
王宮は、王宮へ連れてこいと言っている。
教会は、王宮を遠ざけて教会へ連れてこいと言っている。
同じ少女を、同じ朝に、別々の場所へ。
私は二通を並べた。
「なるほど」
セシリアが不安そうに見上げる。
「何が、なるほどなのですか」
「王家と教会は、あなたを守るために動いているのではありません。あなたを誰の記録に置くかで争っています」
「記録」
「王宮の紙にいれば王家の保護下。教会の紙にいれば教会の管轄。どちらも、あなた本人の休息より、自分たちの欄を優先している」
セシリアは紙を見る。
震える指が、白い封蝋にも赤い封蝋にも触れなかった。
「わたしは、欄なのですね」
「いいえ」
私は即座に言った。
「あなたはセシリア・ルミエールです。欄に押し込められる人ではありません」
セシリアの目が潤む。
「では、わたしは何を書けばいいですか」
「何も書かなくてもいい」
「いいえ」
セシリアは首を横に振った。
喉元の聖印が薄く光る。
痛むはずだ。
それでも、彼女は声を落とさなかった。
「昨日、眠ることを選びました。今日は、休む場所を選びたいです」
私は息を吸い、守りたい衝動を手袋の内側へ押し込めた。
「では、言葉にしましょう。拒絶ではなく、今日の希望として」
侍女が小さな筆記板を運んでくる。
セシリアは寝台の上で身を起こし、ペンを持った。インクの先が紙に触れるまで時間がかかる。
私は手を出さない。
やがて、セシリアは一行を書いた。
私は今日、ヴァルトローゼ王都邸で休むことを望みます。
たったそれだけ。
けれど、王宮の命令書より、教会の移送令より、ずっと強かった。
「これで、足りますか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「一番大事な部分は、もう足りています」
聖堂医師が所見を添え、家令が控えを作る。寮母の証言、昨日の診断書、保護記録も同じ封筒に入った。
私は王宮宛ての返書を書いた。
本人は休息を望んでいる。聖堂医師は移送不可と診断している。王宮聴聞を望むなら、学院長、聖堂医師、教会代理人、公爵家立ち会いの場で再協議すること。
次に教会宛ての返書を書く。
本人は休息を望んでいる。王宮からも再出頭命令が来ている。教会単独の移送は、王宮命令との衝突を生む。診察を望むなら、学院長、聖堂医師、王宮聴聞官、公爵家立ち会いの場で再協議すること。
相手が隠したい相手の名を、それぞれの紙に書き込む。
「お嬢様」
家令が静かに問う。
「この返書を、そのまま渡してよろしいのですか」
「ええ。王宮の使者には教会の名を読ませて。教会の使者には王宮の名を読ませて」
「争いになります」
「もう争っています」
私は赤と白の封蝋を見下ろした。
「私たちは、その事実を紙の上へ移すだけです」
* * *
廊下の向こうで、二人の使者が同時に声を荒げた。
王宮の使者は、教会の単独移送を聞いて顔を赤くした。
教会の使者は、王宮の再出頭命令を聞いて白い祭服の袖を握りしめた。
互いに相手の紙を知らなかったのだ。
私は扉のこちら側で、その声を聞いた。
勝ったのではない。
セシリアが眠り、白湯を飲み、自分で選ぶ時間を得ただけだ。
でも、その小さな時間こそ、王家と教会が奪おうとしていたものだった。
ユーリアが窓辺から戻る。
「屋根の影が動きました」
「こちらの返書を見た?」
「見せました」
「あなた、見せたの?」
「はい。王家に知られたくない情報なら隠します。王家に怒ってほしい情報なら、見せます」
ユーリアは目を伏せる。
「差し出がましい判断でした」
「いいえ」
私は首を振った。
「助かったわ」
命令ではなく判断した。
「ただし、次からは一言ください」
「はい」
「それから、眠っていないでしょう」
「任務中です」
「これは命令ではなく、私の希望だけれど」
私は窓の外を見た。
屋根の上にいた影は消えている。門前では白い馬車の横に、王宮の黒い馬車が増えていた。
「あなたにも、あとで椅子に座ってほしいわ」
ユーリアは答えなかった。
返事の代わりに、扉の外で新しい足音が止まる。
もっと重く、もっと慌ただしい。
「お嬢様」
家令の声が、先ほどより硬い。
「王宮より追加の伝達です」
私はセシリアを見た。
彼女は筆記板を胸に抱いたまま、こちらを見ている。
「王太子殿下が、正午に当邸へお越しになるとのことです」
白い馬車の向こうに、黒い馬車が止まる。
薔薇の門前で、王家と教会が初めて同じ場所に立った。
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