第79話 七人の夜
聖約破壊者という言葉は、夜になっても屋敷の壁から消えなかった。
使用人たちは普段通りに灯を入れ、食事を運び、廊下を磨いた。けれど誰もが、門の外に集まり始めた見物人の気配を知っている。王都の噂は早い。教会の使者が大声で通告した以上、明日の朝には私は完全な悪役に戻っているだろう。
それでも、サロンの居間には温かい灯があった。
大きな円卓ではなく、暖炉の前に椅子を寄せた。証拠箱も、禁書目録も、命令書も、今夜だけは壁際の机へ置いた。
「今夜は証言の練習をしないのですか」
ユーリアが尋ねる。
「しないわ」
「では、警備配置を」
「それもアイリスと使用人頭が済ませた」
「私は何をすれば」
私は隣の椅子を叩く。
「座って、温かいものを飲む」
彼女はまだ少し疑っていたが、座った。
セシリアが蜂蜜入りの湯を配る。今度は給仕ではなく、皆で回す。アイリスは窓辺から戻り、剣を壁に立てた。ノエルは記録帳を閉じ、ミレイユは噂の帳簿を伏せる。サフィラは王女の印章を布で包み、エリスは眼鏡を外して目元を揉んだ。
戦うための道具を、少しだけ手放す夜。
その静けさが、怖いほど甘かった。
「レティシア様」
最初に口を開いたのはセシリアだった。
「私は、明日どんな言葉で呼ばれても、あなたのそばに立ちます。聖女候補としてではなく、ここで休むことを選んだ私として」
私は頷いた。
胸の奥が熱くなる。
アイリスが続く。
「私は剣を抜く。だが、あなたの命令でではない。私が守りたいから守る」
ノエルはカップを両手で包んだまま言う。
「私は証明します。好きという感情が、術式の誤差ではなく本人性の証拠だと」
ミレイユが笑う。
「私は噂を買います。安くはありませんけれど、あなたを悪女にする噂より、あなたに救われた人の生活の方がずっと価値がありますもの」
サフィラは背筋を伸ばした。
「私は王女として、逃げずに名を出します。国を背負うことと、あなたを選ぶことを、誰にも分けさせません」
エリスは暖炉の火を見たまま、少しだけ皮肉を薄めた声で言う。
「私は記録します。あなたが奪ったのではなく、返したのだと。真実は抱きしめないけれど、逃げ道くらいは照らせます」
最後にユーリアが、包帯の残る手を膝の上で開いた。
「私は影に戻りません。あなたを任務ではなく恋で守ります。必要なら、私の報告書も命令書も、全部証言台へ出します」
暖炉の薪が小さく弾けた。
私は言葉を失っていた。
選ばれることが怖い。
王太子妃になるためだけに育てられた私は、選ばれるとは役割に閉じ込められることだと思っていた。だから彼女たちが私を選ぶたび、嬉しさと同じだけ恐怖が来る。
私が中心になれば、また誰かを縛るのではないか。
私のそばという言葉が、別の檻になるのではないか。
「怖いわ」
声に出すと、居間が静かになった。
「あなたたちに選ばれるのが、嬉しいのに怖い。私がまた誰かの人生を自分の物語にしてしまうのではないかと、ずっと思っている」
セシリアが首を振る。
「私の人生は、私のものです」
アイリスが頷く。
「だから隣に立つ」
ノエルが淡々と足す。
「所有と相互選択は別概念です」
ミレイユが少し笑った。
「怖がるくらいでちょうどいいのですわ。怖がらない方が、よほど危険です」
サフィラが私の手を取る。
「王女の選択を侮らないでください」
エリスが眼鏡を戻す。
「司書の索引もです」
ユーリアは少し迷い、それから私の手首に巻いた包帯へ触れた。
「私の戻る場所は、私が選び直します。明日も、その次も」
涙が落ちた。
今度は隠さなかった。
誰かが誓うたび、私は返事を一つずつ変えた。
セシリアには、あなたの祈れない朝もそばにいると答えた。
アイリスには、剣を置きたい夜も騎士でなくならないと答えた。
ノエルには、証明できない感情を証明しろとは言わないと答えた。
ミレイユには、損得の計算を休みたい時は私が財布を持つと答えたら、彼女は笑って、危険だから監査をつけると言った。
サフィラには、王女の冠が重い日は、少女として紅茶を飲みに来てほしいと伝えた。
エリスには、真実を抱えられない夜は本を閉じていいと答えた。
ユーリアには、立っていたい日も座りたい日も、私の隣の距離は命令で測らないと告げた。
言葉はどれも完璧ではない。
それでも、完璧な誓約より、不完全な返事の方がずっと温かかった。
居間の空気が緩むと、セシリアが小さな包みを取り出した。中には、七枚ではなく、空白を含めた八枚の小さな布札がある。
「名前を書いても、書かなくてもいい札です。部屋の扉に掛けるために」
アイリスは自分の札を見て、剣の印を描いた。
ノエルは式記号を書きかけて、消し、花弁を一枚描く。
ミレイユは金貨ではなくパンの絵を選び、サフィラは小さな旗を描いた。エリスは本の形を書き、ユーリアはしばらく白紙のまま眺めていた。
「書かなくてもいいのよ」
私が言うと、彼女は頷く。
「では、今日は線だけ」
黒い細い線が一本、布札に引かれた。
影ではなく、道のような線だった。
私の札は、皆が見ている前で空白にした。
セシリアが首を傾げる。
「レティシア様は書かないのですか」
「今夜は、選ばれることに慣れる練習をするわ。名前を書かなくても、ここにいていいと」
ミレイユが柔らかく笑う。
「では、空白の札も高価に扱いましょう」
サフィラが私の札を暖炉の上へ置いた。
空白なのに、そこに居場所がある。
それは私にとって、どんな愛の言葉より難しい贈り物だった。
ユーリアがそっと言う。
「空白でも、見失いません」
私は頷いた。
泣かずに頷くのは、少し失敗した。
* * *
夜更け、居間の灯を落とす前に、私たちは証拠箱を中央へ戻した。
甘い夜は、戦いから逃げるためのものではない。
戦う前に、自分たちが何のために立つのか確かめるためのものだ。
門の鐘が鳴ったのは、最後の燭台を消す直前だった。
一度だけ、重く。
ユーリアが立ち上がり、アイリスが剣を取る。私も外套を羽織って玄関へ向かった。
門前には、白い封筒が置かれていた。
星冠教会の正式印。
封蝋には、枢機卿ベネディクトの紋章が深く刻まれている。
私はそれを拾い上げた。
宛名は、私の名ではない。
聖約破壊者へ。
夜の甘さは、そこで終わった。
けれど、誰も私の後ろから離れなかった。
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