第77話 七人目の椅子
新しい椅子は、食堂の景色を大きく変えた。
たった一脚。
けれど、これまでユーリアが立っていた場所に空白が生まれ、その空白が彼女の席になった。
朝食の卓には、焼きたての白パン、秋葡萄のジャム、温かい卵料理が並んでいる。普段ならユーリアがすべての皿の位置を整えていた。今日は使用人頭が緊張しながら皿を置き、ユーリアは椅子の後ろで立ち尽くしている。
「座って」
私が言うと、彼女は椅子を見た。
「どのタイミングで?」
「食事の前よ」
「給仕の確認後ではなく?」
「今日は給仕される側でしょう」
ユーリアは真剣に困っていた。
セシリアが小さく笑い、すぐに口元を押さえる。
「ごめんなさい。可愛くて」
「可愛い、ですか」
ユーリアは敵に囲まれたような顔をした。
アイリスが椅子を少し引く。
「座る時は、こうだ」
「騎士に椅子を引かれる侍女とは」
エリスがぼそりと言い、ミレイユが扇で笑いを隠した。
サフィラは王女らしく優雅に頷く。
「慣れない席ほど、最初は誰かに支えてもらえばいいのです」
ノエルは眠そうにパンを割りながら言う。
「椅子は人体拘束具ではありません。座っても逃げられます」
「その説明は安心できるのかしら」
私は思わずつぶやいた。
ユーリアは椅子に座った。
背筋はまっすぐすぎる。膝は閉じすぎている。手は膝の上で命令待ちの形を作っている。
それでも、座った。
その事実だけで、胸の奥が温かくなる。
同時に、怖くもなった。
椅子を用意することは、居場所を作ることだ。けれど居場所は、時に新しい檻にもなる。サロンにいてほしいという私の願いが、いつか彼女たちを縛る言葉にならないとは限らない。
私は食前の祈りの前に、書面を一枚取り出した。
「皆に確認したいことがあるの」
ミレイユがすぐに反応する。
「契約書ですの?」
「契約ではなく、規約案よ」
エリスが眉を上げる。
「その違いを説明できなければ、教会に突かれます」
「だから今、突いてもらうわ」
私は紙を卓の中央に置いた。
第一に、薔薇のサロンへ来る者は、いつでも去る権利を持つ。
第二に、部屋の鍵は本人が管理する。
第三に、治療、証言、護衛、同席、接触のいずれも、本人の拒否を優先する。
第四に、好意は役割の対価ではない。
第五に、席は所有の印ではなく、戻る場所の目印である。
読み終えると、しばらく誰も喋らなかった。
沈黙を破ったのはセシリアだった。
「祈れない朝があっても、席はありますか」
「もちろん」
アイリスが続く。
「守れない日があっても?」
「あるわ」
ノエルが紙へ指を置く。
「観察したくない日があっても?」
「ええ」
ミレイユが笑う。
「贈り物を断られても、機嫌を損ねない項目が要りますわね。主に私のために」
サフィラは少し考えた。
「王女としての義務で戻らなければならない日があっても、帰って来られると明記してください」
エリスは羽根ペンを取る。
「真実を言いたくない日があっても、沈黙の席を残す。これも必要です」
ユーリアは最後まで黙っていた。
私は彼女を待つ。
朝の光がカップの縁で揺れ、焼きたてのパンの香りが冷めかける。
やがて彼女は、自分の椅子の背に触れた。
「立っていたくなった日も、座らない自由がほしいです」
胸が詰まった。
「ええ。もちろん」
私は規約へその一文を書き足した。
椅子は座らせるためだけにあるのではない。座っても、立っても、戻れる場所を示すためにある。
規約案は、朝食が冷めても終わらなかった。
エリスが文言を削り、ノエルが曖昧な語を嫌い、ミレイユが実務の抜け穴を潰す。サフィラは外部から見た時の危険を指摘し、アイリスは緊急時の避難経路を書き足した。
セシリアは、しばらく迷ってから一文を提案した。
「助けてくれた相手を、好きにならなくてもよい」
部屋が静かになる。
彼女は祈り布を握りながら、言葉を続けた。
「私はレティシア様が好きです。でも、救われたから好きにならなければいけない、と思う子が来るかもしれません」
その通りだった。
救出は、時に恩の鎖になる。
私が一番恐れていた形を、セシリアは優しい声で正面から置いた。
「入れましょう」
私はすぐに言った。
ミレイユが羽根ペンを取る。
「重要条項ですわ。大きめの字で」
アイリスは腕を組んだ。
「守られたから忠誠を返す必要もない、も足すべきだ」
ノエルが頷く。
「研究成果を提供する必要もありません」
「贈り物で返済する必要もありませんわね」
「外交上の義理も不要です」
サフィラが淡々と言い、エリスが紙の余白を広げた。
「真実の提供も強制しない。沈黙の権利と重複しますが、強調して損はありません」
ユーリアは最後に、自分の椅子の背を指で叩いた。
「守られたから仕える必要もない、でしょうか」
私たちは皆、彼女を見た。
ユーリアは視線を受けても、引っ込めなかった。
「私は、仕えることでしか恩を返せないと思っていました。今も、そう思いそうになります」
「なら、入れましょう」
私は言った。
規約案の文字が増えていく。
去る権利、拒む権利、黙る権利、好きにならない権利、仕えない権利。
権利ばかりの紙は、少し不格好だった。
でも、その不格好さがサロンらしいと思った。
誰かを美しく並べるための規約ではない。
傷を持ったまま、椅子を引いたり戻したりできるようにするための紙だ。
私は最後に一文を足した。
この規約は、本人たちの言葉で何度でも書き直す。
エリスがそれを見て、珍しく反対しなかった。
「索引は更新されるものですから」
ユーリアはその紙を見つめたまま、ようやく椅子の背から手を離した。
* * *
朝食が終わる頃、ようやくユーリアは卵料理に手を伸ばした。
小さく一口。
セシリアが嬉しそうに見て、アイリスが見ていないふりを失敗し、ミレイユが追加のジャムを勧め、サフィラが葡萄を取り分ける。ノエルはその様子を記録しようとして、エリスに肘で止められた。
私は笑ってしまった。
すると、七つの小さな光が同時に卓の下で瞬いた。
喉元、手首、足首、指輪の跡、胸元の古い印。
全員が、別々の場所を押さえる。
ユーリアの椅子が床を鳴らした。
「今のは」
ノエルの測定具が、赤ではなく星の形に針を振る。
エリスが顔色を変えた。
「同じ痕です。全員、同じ星座を描いています」
新しい椅子の喜びは、まだ温かいまま、不穏な光に照らされた。
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