第76.5話 侍女は命令書を燃やした
深夜の暖炉は、炎より灰の匂いが強かった。
ユーリアは跪かず、私の前に立っていた。
それだけで、彼女が何かを変えようとしているのが分かる。
手には王家の影の封蝋が押された命令書。
開封済みで、折り目は一度だけ。
彼女は何度も読み返していない。
きっと、読まずとも内容を知っていたからだ。
「レティシア様」
「はい」
「この命令は、あなたの動向を王宮へ即時報告し、必要であれば拘束補助を行えというものです」
声はいつも通り低く、乱れがない。
けれど右手の親指だけが、紙の端を強く押しすぎて白くなっていた。
私は椅子から立たなかった。
彼女が逃げるなら追う。
けれど今は、逃げずに立つ彼女を見届けるべきだと思った。
「あなたはどうするの」
ユーリアは目を伏せた。
「これまでは、命令に従うか、従ったふりをするか、その二つしか考えませんでした」
「今は?」
「燃やします」
短い答えだった。
彼女は命令書を暖炉へ差し出す。
炎が紙の端を舐め、黒い線が走った。
封蝋が熱で歪み、王家の紋が崩れていく。
その匂いは甘くも美しくもない。
ただ、古い鎖が焦げるような匂いだった。
ユーリアは最後まで目を逸らさなかった。
「これで、あなたは王家から疑われるわ」
「元から疑われています」
「私からも、完全に信じられるわけではない」
「承知しています」
その即答が痛かった。
彼女は信じられないことを罰として受け取る癖がある。
命令で生きてきた人は、疑われる理由を自分にしか置けないのだ。
私は暖炉の前へ歩き、燃え残った端を火かき棒で崩した。
「ユーリア。これは免罪符ではないわ」
「はい」
「でも、あなたが自分で燃やした証にはなる」
彼女の睫毛が揺れた。
私は机の上に新しい紙を置いた。
「報告書を書いて」
「王宮へですか」
「いいえ。私へ」
ユーリアは初めて戸惑いを見せた。
「何を報告すれば」
「命令ではなく、あなたが今日選んだこと。嘘をついたことがあるなら、それも。言えないことがあるなら、言えないと書いて」
彼女は椅子に座ることをためらった。
私は椅子を引き、黙って待った。
やがて彼女は腰を下ろし、筆を取る。
字は驚くほど整っていた。
任務報告の癖が染みついた、余白の少ない字。
けれど二行目で筆が止まる。
「ただいま、と書いてもよろしいですか」
私は息を呑んだ。
命令書を燃やすより、その一言の方が彼女には難しかったのだろう。
「もちろん」
ユーリアは紙の中央に、ただいま、と書いた。
任務完了でも、監視継続でもない。
帰ってきた人の言葉だった。
私はその紙を受け取り、灰の匂いが移らないよう少し離して乾かした。
「おかえり、ユーリア」
彼女の無表情が崩れた。
ほんの一瞬、泣き方を知らない子どものような顔になった。
すぐに戻ったけれど、私は見逃さなかった。
「触れても、よろしいでしょうか」
「どこに?」
「袖に。手は、まだ」
汚れているから、と続ける前に、私は自分から袖口を差し出した。
彼女は布の端を二本の指でつまむ。
影縫いを使う手とは思えないほど慎重だった。
私はその指に自分の手を重ねたくなったが、今夜は踏み込みすぎないことにした。
帰ってきたばかりの人には、扉の内側で息をする時間がいる。
暖炉の中で命令書は完全に灰になった。
ユーリアはその灰を小瓶に集め、ラベルを貼った。
王家命令書、焼却済み。
「保管するの?」
「はい。私がもう一度迷った時、燃やしたことを忘れないために」
その几帳面さが彼女らしくて、私は小さく笑った。
ユーリアは瓶を棚に置き、私へ深く礼をした。
命令の礼ではない。
帰宅の挨拶に似た、少しぎこちない礼だった。
そのあと、ユーリアは自分の手を洗いに行った。
水音が長く続く。
戻ってきた彼女の指はまだ冷えていたが、袖ではなく私の掌の近くで止まった。
触れていい、と私が目で告げると、彼女はほんの一瞬だけ指先を重ねた。
命令では届かない距離に、彼女は初めて自分で踏み込んだ。
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