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第76話 侍女は戻る場所を選ぶ

 ユーリアが私の名を呼んだ瞬間、破約の薔薇は刃ではなく鍵になった。


 足首の聖約痕から、黒い糸がほどけていく。


 王家の命令、教会の副署、幼い手で書かされた署名。一本ずつ抜けるたび、私の手首にも痛みが返った。だが、これまでの破約とは違う。私が切っているのではない。


 ユーリアが拒み、私はその拒絶を形にしているだけだ。


「戻る場所を言って」


 私は彼女に頼んだ。


「王家ではない、教会ではない、命令書でもない。あなたが生きて戻りたい場所を」


 彼女は息を吸う。


 聖約痕の残り火が喉を塞ごうとした。


 セシリアの祈りが支え、ノエルの魔導式が痕の位置を照らし、エリスが禁書目録から古い契約文の抜け道を読み上げる。


「本人の帰属意思なき影契約は、主命により維持される」


 エリスが皮肉げに笑った。


「つまり、本人の帰属意思が出たら崩れます。書いた人、詰めが甘いですね」


 ミレイユがすかさず返す。


「そういう詰めの甘さは高く買いますわ」


 アイリスは扉の前で剣を構えたまま、まっすぐユーリアを見た。


「言え。君の声で」


 サフィラは窓の外へ視線を向け、門前の王宮使者へ聞こえない距離を測っている。


 皆が、彼女の言葉を待っていた。


 急かさず、代わりに言わず、奪わずに。


 ユーリアは私の手首から血を拭った。


 その手はもう、命令の手つきではなかった。


「私は」


 青い光が弾ける。


「私は、薔薇のサロンへ戻ります」


 影契約の芯が砕けた。


 廊下の床に落ちた黒い糸が、灰になって消える。ユーリアは倒れなかった。私の肩を借りながらも、自分の足で立っていた。


 歓声は上がらない。


 あまりにも静かな解放だった。


 ただ、セシリアが泣き、ミレイユが扇で目元を隠し、ノエルが測定具を持つ手を震わせた。アイリスは剣を鞘へ戻す時、いつもより大きな音を立てた。


 ユーリアは全員へ向き直る。


「私は監視役でした。報告書も書きました。ここに残る資格は、皆さまが決めてください」


「違うわ」


 私は言った。


「ここに残るかは、まずあなたが決めた。私たちは、あなたとどう隣に立つかを決める」


 セシリアが頷く。


「私は、ユーリアさんにいてほしいです。でも、怖くなったら怖いと言います」


「それが正しいです」


 アイリスが腕を組む。


「私は怒っている。だが、君が侵入者を殺さず止めたことも見た。これから背中を預けるかは、行動で確かめる」


「はい」


 ノエルは短く言う。


「観察継続」


「それは許可なのでしょうか」


「好意的な許可です」


 ミレイユが笑い、サフィラは静かに告げた。


「私は王女として、あなたを外交上の駒にはしません。少女としては、レティシア様の隣を取られすぎないよう警戒します」


 ユーリアが困ったように瞬く。


 エリスは禁書目録を閉じた。


「私は、元内部者仲間が増えるのは悪くありません。皮肉を言う相手が増えます」


 それは不器用な歓迎だった。


 破約の直後、ユーリアは眠った。


 倒れたのではない。


 セシリアに促され、自分で頷き、客間の寝椅子へ横になった。眠ることさえ命令でしか知らなかった人が、休むと決めて目を閉じる。その静けさを、私たちは誰も邪魔しなかった。


 目覚めた時、夕陽が窓を染めていた。


 ユーリアはまず周囲を確認し、次に自分の足首を見た。


 青白い輪は薄い痕だけを残している。


「戻っていない」


 彼女が呟く。


「ええ。ここにいるわ」


 私は椅子から立ち上がった。


「私も、眠っていたのですか」


「二時間ほど」


「任務中に」


「任務ではないでしょう」


 ユーリアは何か言おうとして、やめた。


 それから小さく頷く。


「はい。任務ではありません」


 客間の机には、鍵が一つ置かれていた。


 ヴァルトローゼ王都邸の客室の鍵ではない。薔薇のサロンに新しく用意した、小さな私室の鍵だ。


「これは?」


「あなたの部屋の鍵」


「侍女部屋ではなく?」


「侍女として働きたい時間があれば相談しましょう。でも、眠る場所は命令待ちの控室ではなく、あなたの部屋がいいと思ったの」


 彼女は鍵へ手を伸ばさない。


「受け取ると、ここに縛られませんか」


「返してもいい鍵よ」


「返したら?」


「その時は、別の行き先を一緒に考える」


 ユーリアは鍵を見つめた。


 長い時間のあと、そっと掌へ乗せる。


「重いです」


「鍵だもの」


「命令書より、重い」


 その言葉に、私は何も返せなかった。


 鍵は自由の形をしている。


 けれど自由には、選び続ける重さがある。


 ユーリアは鍵を胸元へ押し当てた。


「部屋を、見てもいいですか」


「もちろん」


 廊下を歩く時、彼女はいつものように半歩後ろではなく、私の横へ並んだ。


 新しい部屋には、机と寝台と、まだ空の棚がある。窓辺にはセシリアが選んだ白い花。机にはノエルの測定具ではなく、ミレイユが用意した小さな帳面。サフィラからは旅用の封筒、エリスからは無記名の索引札。アイリスは扉の立てつけを確認しただけだと言ったが、蝶番は明らかに補強されていた。


 ユーリアは一つずつ見て、最後に空の棚へ触れた。


「何を置けばよいのでしょう」


「命令書以外のもの」


 彼女は少し考える。


「では、最初に手袋を」


 次に彼女は、空の帳面を机の中央へ置いた。


「何を書くの?」


「まだ分かりません」


「報告書ではなく?」


「はい。報告先が決まっていない帳面です」


 それは、彼女にとって途方もなく自由な紙なのだろう。


 私は羽根ペンを添えた。


「最初の頁は空白でもいいわ」


「空白も、記録になりますか」


「あなたが選んだ空白なら」


 ユーリアは少し考え、何も書かずに帳面を閉じた。


 その白い頁が、命令書より眩しく見えた。


 黒い手袋が、棚の一番上に置かれた。


 隠すためではなく、過去として。


* * *


 午後、王宮からの使者はもう一通の黒封を置いていった。


 ユーリア・ナイトレインは任務中死亡として処理する。


 その一文を読んだ時、ユーリアは少しだけ笑った。


「便利ですね。私は死んだことになりました」


「便利ではないわ」


 私は黒封を机に置く。


「あなたが生きていることを、これから何度でも証明する必要がある」


「はい」


「怖い?」


「怖いです」


 即答だった。


 それが嬉しかった。


 彼女はもう、怖さを消していない。


「でも、戻る場所があります」


 夕方、食堂に新しい椅子が運び込まれた。


 誰かを所有するための席ではない。戻って来た人が、もう立ったまま給仕しなくていいように置く席だ。


 ユーリアは椅子の背に手を置き、長く黙っていた。


 そして小さく言った。


「座る練習が必要です」


 私は笑った。


「ええ。サロンで一番難しい礼法ね」


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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