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第75話 任務ではなく恋で

 ユーリアが侍女服を脱いだ朝、屋敷中が少しだけ落ち着かなかった。


 誰も口には出さない。


 けれど食堂へ向かう廊下で、使用人たちの視線が揺れる。黒いドレスは簡素で、飾りもない。それでも彼女が銀盆を持っていないだけで、世界の配置が変わったように見えた。


 私自身も、どこへ視線を置けばいいか迷っていた。


「似合いませんか」


 ユーリアが尋ねる。


「似合っているわ」


「では、なぜ耳が赤いのですか」


「それは、あなたが急に普通の質問をするからよ」


 彼女は少しだけ瞬きをした。


 冗談が通じたのかは分からない。けれど、口元がほんのわずかに緩んだ。


 その小さな変化を見た瞬間、足首の聖約痕が青く光った。


 ユーリアの表情が消える。


 彼女は壁に手をつき、呼吸を押し殺した。


「情動接続の切除が始まっています」


 ノエルが測定具を開く。


 エリスは禁書目録を抱え、声を低くした。


「感情が強く出た瞬間に罰を走らせる。よくできた最低の術式です」


 セシリアが祈りを準備し、アイリスが廊下を閉鎖する。ミレイユは使用人たちを別室へ退かせ、サフィラは王女の印で王宮からの使者を門前に止めた。


 また皆が動く。


 けれど今回、中心にいるユーリアは、支えられるだけではなかった。


「レティシア様」


「ここにいるわ」


「私は、あなたを守ります」


 聖約痕が鋭く光る。


 彼女の声が途切れた。


「任務としてではなく」


 光が喉元へ走る。


 ユーリアは膝をついた。


 私は彼女の前にしゃがむ。


「無理に言わなくていい」


「言わなければ、術式は私の言葉をまた奪います」


 彼女は汗で濡れた額を上げた。


 影が背後で割れている。黒い布を裂くように、床へ何本もの亀裂が走った。


「私は、あなたを任務で守っていました」


「ええ」


「命令なら、迷わず動けました。命令なら、傷ついても意味がありました」


「ええ」


「でも、今は違います」


 セシリアの祈りが淡く広がる。


 聖約痕の痛みを消すのではなく、彼女が言い切るまで呼吸を支えるための祈りだった。


「あなたが笑うと、見ていたいと思います。あなたが傷つくと、命令がなくても腹が立ちます。あなたが誰かの手を取ると、嬉しいのに、胸が苦しくなります」


 ミレイユが扇で口元を隠した。


 アイリスはなぜか視線を廊下の天井へ向ける。


 こんな時なのに、私は泣きそうになっていた。


「それを、なんと呼ぶか知っています」


 ユーリアは震える息を吐いた。


「恋です」


 青白い輪が砕けるように輝いた。


 影が彼女の足を引きずろうとする。


 私は手袋を外し、破約の薔薇を露わにした。


 まだ早いかもしれない。けれど、彼女は言った。命令ではなく、恋だと。


「ユーリア。あなたは、その恋を切除されることを望む?」


「望みません」


 今度は喉が潰れなかった。


「王家へ戻り、私を眠らせる任務を望む?」


「望みません」


「私の隣にいることを、誰かの命令ではなく選ぶ?」


 彼女の目から、涙が一筋落ちた。


「選びます」


 破約の薔薇が開く。


 赤い花弁の光が、彼女の足首へ触れた。切るのではなく、彼女の拒絶に沿ってほどく。王家の黒い線、教会の青白い輪、幼い頃から重ねられた命令の糸を、一つずつ見分ける。


 痛みが私の手首へ返ってきた。


 血が白い袖口を濡らす。


 ユーリアが目を見開く。


「やめてください、レティシア様」


「これは私の選択よ」


「私のために傷つかないでください」


「あなたが自分を傷つけるのを、私が見ていられないのと同じ」


 告白の言葉は、廊下にいた全員を動けなくした。


 恋。


 制度の書類には載らない、王家の命令書では切除対象と呼ばれたもの。


 それをユーリアは、痛みの中で自分の声にした。


 私はすぐ返事をしたかった。けれど、ここで私の感情を押し返せば、彼女の告白を私の答えで覆ってしまう気がした。


 だからまず、確認した。


「その言葉を、証拠に使っていい?」


 ユーリアは苦しそうに瞬く。


「恋を、ですか」


「ええ。あなたを切除する理由にされた言葉を、あなたが生きている証拠に変えたい。でも、使われたくないなら使わない」


 彼女の口元が、痛みとは違う形に震えた。


「使ってください。隠したら、また王家に病名をつけられます」


「分かった」


 ミレイユが素早く書面を用意する。


 ノエルが術式の反応を記録し、エリスが禁書目録の該当箇所に紙片を挟む。セシリアは祈りを続けながら、泣きそうな顔で微笑んでいた。


 アイリスが少し不器用に言う。


「恋なら、守り方も変わるな」


「どう変わりますか」


「命令より面倒で、ずっと強い」


 サフィラが静かに笑う。


「外交より厄介ですね」


「王女が言うと説得力がありすぎますわ」


 ミレイユの声で、張り詰めたものが少し緩んだ。


 ユーリアは私を見ていた。


 返事を待っているのではない。拒まれる覚悟をしている顔だった。


 胸が痛む。


「ユーリア。私も、あなたにそばにいてほしい」


 彼女の呼吸が止まる。


「侍女としてだけではなく。影としてでもなく。あなたがあなたのまま、座ったり立ったり迷ったりしながら、私の隣にいてほしい」


 青白い輪がまた強く光る。


 けれど今度は、彼女が逃げなかった。


「それは、恋ですか」


 まっすぐ聞かれて、私の耳が熱くなった。


 セシリアが息を呑み、ミレイユが扇で顔を隠し、エリスが記録する手をわざと止める。


 私は逃げられない。


 逃げたくもなかった。


「ええ。きっと、恋よ」


 ユーリアの目から、また涙が落ちた。


 聖約痕がそれを罰しようと光る。


 私は彼女の手を取る許可を目で求めた。ユーリアは頷く。


 包帯越しの手は冷たい。


 だが、握り返す力は確かだった。


 セシリアが祈りの声を細くし、アイリスが廊下の先へ視線を走らせる。


 誰も、私たち二人だけの場面にしなかった。


 恋は秘密の甘さだけではなく、皆の前で守られる権利でもある。王家が病名にしたものを、サロンは恥として隠さない。


 ユーリアはそれに気づいたように、握った手へ力を足した。


「見られているのに、怖くありません」


「私もよ」


 本当は少し怖い。


 けれど、その怖さを抱えたままでも、手を離さないことはできた。


 その力に合わせるように、破約の薔薇が赤く深く開いていく。


 花弁が最後の輪へ届く。


 だが、完全には切れなかった。術式の芯に、幼い署名の記憶が絡みついている。


 ユーリア自身が、まだ最後の言葉を言えていない。


 彼女は震える手で、私の血のついた手首を支えた。


「レティシア」


 様が、落ちた。


 その呼び方だけで、廊下の空気が変わる。


「私は、あなたのそばにいたい」


 影の亀裂が止まった。


 破約の薔薇が、もう一度強く咲いた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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