第74話 裏切り者と呼ばれても
裏切り者、という声は廊下の燭台を一つずつ消していくように響いた。
王家の影は三人いた。
姿を完全には見せない。柱の陰、壁掛けの裏、床を滑る黒い線。それでもユーリアには分かるのだろう。彼女は包帯を巻いた手を開き、私たちを背に庇った。
「ユーリア・ナイトレイン。帰還命令不履行。監視対象への情動接続。影としての資格喪失」
影の一人が読み上げる。
声に感情はない。
かつてのユーリアも、こんな声で報告していたのかもしれない。
「資格喪失ではありません」
ユーリアが答えた。
「私はもう、その資格を望みません」
床の影が一斉に伸びた。
アイリスの剣が光る。
けれどユーリアは片手で制した。
「殺さないでください。彼らも命令で動いています」
「君を殺しに来た相手だぞ」
「だからこそ、私が止めます」
彼女の影縫いが床を這った。
黒い糸が三方向へ分かれ、侵入者の足元を正確に縫い留める。だが、教会式の聖約痕が青白く光り、縫った糸が逆にユーリアの足首へ食い込んだ。
彼女が息を詰める。
私は駆け寄りかけた。
でも、また奪ってはいけない。
「支えが必要なら言って」
ユーリアはほんの一瞬だけ振り返った。
「必要です。後ろにいてください」
「分かった」
私は彼女の背後に立つ。
触れない。ただ、そこにいる。
それだけで、彼女の肩がわずかに下がった。
影の一人が笑う。
「侍女ごっこに溺れたか」
「ごっこではありません」
「なら何だ。主に飼われる犬に戻っただけだろう」
ユーリアの指が強く曲がった。
影縫いの糸が一瞬、相手の喉元へ伸びかける。
彼女はそれを自分で止めた。
怒りに従えば、王家が教えた影へ戻ってしまう。
そのことを、誰より彼女が知っている。
「私は飼われません」
低い声だった。
「レティシア様にも、王家にも、教会にも」
影たちの動きが止まる。
「では、どこへ戻る」
ユーリアは答えられなかった。
青白い痕が、喉元へまで光を伸ばす。拒絶の言葉だけでなく、帰る場所を選ぶ言葉も縛っているのだ。
私は彼女の横へ出た。
「その問いに、今答えられなくてもいいわ」
影たちが私を見る。
「戻る場所は、命令された瞬間に決めるものではない。怯えている人から急いで言葉を引き出すのは、あなたたちのやり方でしょう」
「悪役令嬢が影の教育を語るか」
「ええ。語るわ。あなたたちが人を道具として磨くなら、私はその傷を証言に変える」
サフィラが廊下の反対側から衛兵を連れて来る。ミレイユの雇った私兵ではなく、王女付きの公的な護衛だ。侵入者を私刑にしないための証人でもある。
エリスは既に記録板を構えていた。
「発言、すべて写しています」
ノエルが床の影へ魔導針を刺す。
「拘束術式、採取完了。教会式の癖もあります」
セシリアは治癒ではなく防護の祈りを、ユーリアの背中にだけ薄く重ねた。
逃げ道が、一つずつ形になっていく。
影たちはそれを見て、初めて焦った。
「ユーリア、任務に戻れ。そうすれば処分は軽くなる」
その声は命令ではなく、脅しだった。
ユーリアは膝を折りかける。
私は彼女の名前を呼んだ。
「ユーリア」
彼女は顔を上げる。
「戻りたいなら止めない。でも、罰が軽くなるから戻るのと、あなたが戻りたいのは違う」
彼女の唇が震える。
やがて影縫いの糸が、侵入者の武器だけを絡め取った。
喉ではなく、足でもなく、刃だけ。
「私は、戻りません」
青白い痕が弾けた。
痛みでユーリアが崩れそうになる。今度は彼女が先に言った。
「支えてください」
私はその背を支えた。
温かかった。
拘束された影たちは、最後まで名乗らなかった。
それでも記録は残せる。
エリスが発言を読み返し、ノエルが採取した術式片を封印し、サフィラが不法侵入の外交証明を作る。ミレイユは王都へ流す噂の順序を組み、アイリスは彼らの武器を一本ずつ机に並べた。
ユーリアはその横に立っている。
かつての仲間を見張る立場になっても、勝ち誇らなかった。
「彼らも、私と同じ契約を受けています」
彼女は言った。
「なら、解くか?」
アイリスが尋ねる。
ユーリアは首を振る。
「今の彼らは望んでいません。望まない破約は、別の支配になります」
その答えに、私は息を止めた。
彼女はもう、自分が受けた痛みを理由に他人の選択を奪おうとはしていない。
影の一人が低く笑った。
「飼い主の前で立派なことを言う」
ユーリアの顔がこわばる。
私は言い返そうとしたが、彼女が先に口を開いた。
「飼い主ではありません」
「では何だ」
「私が、帰りたいと思ってしまった人です」
客間の空気が止まった。
影は嘲笑を続けようとして、失敗したように黙る。
ユーリア自身も、自分の言葉に驚いていた。
私は胸の内側を押さえたくなった。
ここで抱きしめれば、彼女の勇気を私の感動で塗りつぶしてしまう。だから、私はただ頷いた。
「記録していい?」
エリスが珍しく優しく聞く。
ユーリアは迷い、頷いた。
「はい。ただし、私の言葉として」
「もちろん。司書は捏造しません。皮肉は足しますが」
「足さないでください」
ミレイユが笑う。
緊張が一つほどけた。
影たちは護衛に連れられていく。王家へ返すのではない。学院長と聖堂医師を通じ、第三者の監視下へ移す。王家が勝手に消せない場所へ。
ユーリアはその背を見送った。
「私も、あちらへ戻されるはずでした」
「今は?」
「分かりません」
「分からないままでいいわ」
私は言った。
「戻らないと決めるのと、どこへ帰るか決めるのは、同じ日でなくていい」
ユーリアは静かに目を閉じた。
裏切り者という言葉が、まだ彼女の肩に残っている。
セシリアがそっと近づき、ユーリアへ水を渡した。
「飲めますか」
「はい」
「では、飲んでください。これは命令ではなく、心配です」
ユーリアは水を受け取り、一口だけ飲む。
喉が動いた瞬間、彼女がまだここにいることを、私自身もようやく実感した。
裏切り者と呼ばれても、彼女の体は王家へ戻っていない。
でも、その下に別の言葉が芽を出し始めていた。
* * *
侵入者はサフィラの護衛とアイリスによって拘束され、書庫横の客間へ移された。殺さず、逃がさず、記録を残す。王家の影にとって最も嫌な扱いだろう。
夜、ユーリアは自室で侍女服の前に立っていた。
黒い布はよく似合っていた。けれど似合うことと、縛られることは違う。
「脱いだら、私は何に見えますか」
彼女が背中越しに尋ねる。
「ユーリアに見えるわ」
返事をすると、彼女はしばらく動かなかった。
そして、白いエプロンの紐をほどいた。
布が椅子へ落ちる音は小さかったが、私には扉が開く音のように聞こえた。
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