表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

80/104

第74話 裏切り者と呼ばれても

 裏切り者、という声は廊下の燭台を一つずつ消していくように響いた。


 王家の影は三人いた。


 姿を完全には見せない。柱の陰、壁掛けの裏、床を滑る黒い線。それでもユーリアには分かるのだろう。彼女は包帯を巻いた手を開き、私たちを背に庇った。


「ユーリア・ナイトレイン。帰還命令不履行。監視対象への情動接続。影としての資格喪失」


 影の一人が読み上げる。


 声に感情はない。


 かつてのユーリアも、こんな声で報告していたのかもしれない。


「資格喪失ではありません」


 ユーリアが答えた。


「私はもう、その資格を望みません」


 床の影が一斉に伸びた。


 アイリスの剣が光る。


 けれどユーリアは片手で制した。


「殺さないでください。彼らも命令で動いています」


「君を殺しに来た相手だぞ」


「だからこそ、私が止めます」


 彼女の影縫いが床を這った。


 黒い糸が三方向へ分かれ、侵入者の足元を正確に縫い留める。だが、教会式の聖約痕が青白く光り、縫った糸が逆にユーリアの足首へ食い込んだ。


 彼女が息を詰める。


 私は駆け寄りかけた。


 でも、また奪ってはいけない。


「支えが必要なら言って」


 ユーリアはほんの一瞬だけ振り返った。


「必要です。後ろにいてください」


「分かった」


 私は彼女の背後に立つ。


 触れない。ただ、そこにいる。


 それだけで、彼女の肩がわずかに下がった。


 影の一人が笑う。


「侍女ごっこに溺れたか」


「ごっこではありません」


「なら何だ。主に飼われる犬に戻っただけだろう」


 ユーリアの指が強く曲がった。


 影縫いの糸が一瞬、相手の喉元へ伸びかける。


 彼女はそれを自分で止めた。


 怒りに従えば、王家が教えた影へ戻ってしまう。


 そのことを、誰より彼女が知っている。


「私は飼われません」


 低い声だった。


「レティシア様にも、王家にも、教会にも」


 影たちの動きが止まる。


「では、どこへ戻る」


 ユーリアは答えられなかった。


 青白い痕が、喉元へまで光を伸ばす。拒絶の言葉だけでなく、帰る場所を選ぶ言葉も縛っているのだ。


 私は彼女の横へ出た。


「その問いに、今答えられなくてもいいわ」


 影たちが私を見る。


「戻る場所は、命令された瞬間に決めるものではない。怯えている人から急いで言葉を引き出すのは、あなたたちのやり方でしょう」


「悪役令嬢が影の教育を語るか」


「ええ。語るわ。あなたたちが人を道具として磨くなら、私はその傷を証言に変える」


 サフィラが廊下の反対側から衛兵を連れて来る。ミレイユの雇った私兵ではなく、王女付きの公的な護衛だ。侵入者を私刑にしないための証人でもある。


 エリスは既に記録板を構えていた。


「発言、すべて写しています」


 ノエルが床の影へ魔導針を刺す。


「拘束術式、採取完了。教会式の癖もあります」


 セシリアは治癒ではなく防護の祈りを、ユーリアの背中にだけ薄く重ねた。


 逃げ道が、一つずつ形になっていく。


 影たちはそれを見て、初めて焦った。


「ユーリア、任務に戻れ。そうすれば処分は軽くなる」


 その声は命令ではなく、脅しだった。


 ユーリアは膝を折りかける。


 私は彼女の名前を呼んだ。


「ユーリア」


 彼女は顔を上げる。


「戻りたいなら止めない。でも、罰が軽くなるから戻るのと、あなたが戻りたいのは違う」


 彼女の唇が震える。


 やがて影縫いの糸が、侵入者の武器だけを絡め取った。


 喉ではなく、足でもなく、刃だけ。


「私は、戻りません」


 青白い痕が弾けた。


 痛みでユーリアが崩れそうになる。今度は彼女が先に言った。


「支えてください」


 私はその背を支えた。


 温かかった。


 拘束された影たちは、最後まで名乗らなかった。


 それでも記録は残せる。


 エリスが発言を読み返し、ノエルが採取した術式片を封印し、サフィラが不法侵入の外交証明を作る。ミレイユは王都へ流す噂の順序を組み、アイリスは彼らの武器を一本ずつ机に並べた。


 ユーリアはその横に立っている。


 かつての仲間を見張る立場になっても、勝ち誇らなかった。


「彼らも、私と同じ契約を受けています」


 彼女は言った。


「なら、解くか?」


 アイリスが尋ねる。


 ユーリアは首を振る。


「今の彼らは望んでいません。望まない破約は、別の支配になります」


 その答えに、私は息を止めた。


 彼女はもう、自分が受けた痛みを理由に他人の選択を奪おうとはしていない。


 影の一人が低く笑った。


「飼い主の前で立派なことを言う」


 ユーリアの顔がこわばる。


 私は言い返そうとしたが、彼女が先に口を開いた。


「飼い主ではありません」


「では何だ」


「私が、帰りたいと思ってしまった人です」


 客間の空気が止まった。


 影は嘲笑を続けようとして、失敗したように黙る。


 ユーリア自身も、自分の言葉に驚いていた。


 私は胸の内側を押さえたくなった。


 ここで抱きしめれば、彼女の勇気を私の感動で塗りつぶしてしまう。だから、私はただ頷いた。


「記録していい?」


 エリスが珍しく優しく聞く。


 ユーリアは迷い、頷いた。


「はい。ただし、私の言葉として」


「もちろん。司書は捏造しません。皮肉は足しますが」


「足さないでください」


 ミレイユが笑う。


 緊張が一つほどけた。


 影たちは護衛に連れられていく。王家へ返すのではない。学院長と聖堂医師を通じ、第三者の監視下へ移す。王家が勝手に消せない場所へ。


 ユーリアはその背を見送った。


「私も、あちらへ戻されるはずでした」


「今は?」


「分かりません」


「分からないままでいいわ」


 私は言った。


「戻らないと決めるのと、どこへ帰るか決めるのは、同じ日でなくていい」


 ユーリアは静かに目を閉じた。


 裏切り者という言葉が、まだ彼女の肩に残っている。


 セシリアがそっと近づき、ユーリアへ水を渡した。


「飲めますか」


「はい」


「では、飲んでください。これは命令ではなく、心配です」


 ユーリアは水を受け取り、一口だけ飲む。


 喉が動いた瞬間、彼女がまだここにいることを、私自身もようやく実感した。


 裏切り者と呼ばれても、彼女の体は王家へ戻っていない。


 でも、その下に別の言葉が芽を出し始めていた。


* * *


 侵入者はサフィラの護衛とアイリスによって拘束され、書庫横の客間へ移された。殺さず、逃がさず、記録を残す。王家の影にとって最も嫌な扱いだろう。


 夜、ユーリアは自室で侍女服の前に立っていた。


 黒い布はよく似合っていた。けれど似合うことと、縛られることは違う。


「脱いだら、私は何に見えますか」


 彼女が背中越しに尋ねる。


「ユーリアに見えるわ」


 返事をすると、彼女はしばらく動かなかった。


 そして、白いエプロンの紐をほどいた。


 布が椅子へ落ちる音は小さかったが、私には扉が開く音のように聞こえた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ