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第73話 汚れた手でも

 夜明け前、ユーリアは手を洗っていた。


 書斎の隣の小さな洗面室で、水音だけが長く続く。


 一度、二度ではない。石鹸の泡が消えても、指の間をこすり続けている。


 私は扉の前で声をかけた。


「入ってもいい?」


「見ない方がよろしいかと」


「それは私への配慮?」


「はい」


「では、私が選ぶわ。入ります」


 扉を開けると、朝の薄明かりの中で、彼女の手だけが赤くなっていた。冷たい水に晒しすぎた色だった。


 汚れてなどいない。


 それでも彼女は、汚れを落とすように洗っている。


「止めなさい」


 思わず命令の形になった。


 ユーリアの肩が跳ねる。


 私はすぐに言い直した。


「ごめんなさい。止めてほしい。あなたの手が痛そうだから」


 彼女は蛇口を閉めた。


 水音が消えると、沈黙の方が重かった。


「昨夜の命令書に、切除とありました」


「ええ」


「私は昔から、切り取る側でした」


 彼女は濡れた手を布で包まないまま、洗面台の縁を見つめた。


「手紙を抜き、足取りを消し、見張りの目を眠らせました。直接刃を向けたこともあります。あなたが思うほど、私は綺麗ではありません」


「綺麗かどうかで、ここにいていいかを決めるつもりはないわ」


「私はあなたの近くにいる資格が」


「資格の話に逃げないで」


 少し強く言いすぎた。


 けれど、ここで柔らかく包むだけでは、彼女はまた自分を罰に戻してしまう。


「あなたがしたことを、なかったことにはしない。傷ついた人がいるなら、その責任も消えない。だけど、それと、あなたが今誰にも触れてはいけないという結論は別よ」


 ユーリアは唇を結ぶ。


 そこへセシリアが布と薬を持って来た。


「手を見せてもらってもいいですか」


 ユーリアは反射的に後ろへ下がる。


「聖女候補の方に触れる手ではありません」


「私は、触れてほしいかどうかを自分で決めます」


 セシリアの声は震えていたが、逃げていなかった。


「今は、手当てをしたいです」


 ユーリアが私を見る。


 許可を求める視線だった。


 私は首を振る。


「私ではなく、セシリアに答えて」


 長い沈黙のあと、ユーリアは両手を差し出した。


 赤くなった指へ、セシリアが薬を塗る。アイリスが入口に立ち、外を警戒しながら見ないふりをしている。ノエルは壁際で、冷水による皮膚損傷の記録を淡々と取った。


 ミレイユは乾いた布を追加で持ってきて、わざと明るく言った。


「手荒れは侍女の職業病ですわ。高い薬を使いましょう。請求先は王家で」


 サフィラが静かに頷く。


「外交文書に、侍女の治療費を含めるのは新しいですね」


 場が少しだけ温まった。


 ユーリアは薬を塗られた手を見つめていた。


「怖くないのですか」


 セシリアは答える前に、布を結び終える。


「怖いことはあります。でも、今この手は、私に何も奪っていません」


 その言葉に、ユーリアの顔が歪んだ。


 泣くのを堪えた顔だった。


 私は一歩近づき、彼女へハンカチを差し出す。


「使って」


「私が触れると汚れます」


「汚れたら洗えばいいわ」


 彼女は受け取らなかった。


 だから私はハンカチを自分の頬へ当てる。


 昨日から眠れていないせいで、自分でも気づかないうちに涙が滲んでいた。


「では、お願い。私の涙を拭いて」


 ユーリアの瞳が大きく揺れた。


「それは、命令ですか」


「いいえ。お願い」


 彼女の手が、恐る恐る伸びる。


 布越しに頬へ触れる指は、冷たかった。けれど乱暴ではなく、壊れ物を扱うように優しい。


 汚れた手でも、涙を拭える。


 その事実が彼女の中に届くまで、私は動かなかった。


 手当てが終わっても、ユーリアは自分の手を膝の上から動かせなかった。


 セシリアが巻いた包帯は柔らかい。ミレイユの薬は高価で、サフィラの護衛が持つ外傷薬よりも香りが穏やかだった。


 けれど、優しく扱われるほど、ユーリアは困惑しているようだった。


「何か飲む?」


 私が尋ねると、彼女は首を振る。


「カップを汚します」


「では、私のカップを持って」


「レティシア様」


「落としたら、割れた数だけミレイユに請求されるわ」


「それは困ります」


 真面目に困るので、私は少し笑ってしまった。


 カップを渡すと、彼女は両手で受け取った。包帯の指が白磁に触れる。何も起こらない。茶は濁らず、器も割れない。当たり前のことを、彼女は息を止めて確かめていた。


「温かい?」


「はい」


「その温かさを、あなたの手が壊した?」


「……いいえ」


 小さな答えだった。


 私は頷く。


「なら、次は自分のために持って」


 セシリアが別のカップを差し出す。ユーリアは迷い、受け取った。自分で口をつけるまでに、ずいぶん時間がかかった。


 アイリスが入口からぼそりと言う。


「訓練場では、剣だこも傷跡も誇るものだ」


「影では、隠すものです」


「ここは訓練場でも影でもない」


「では、何ですか」


 アイリスは少し考えた。


「食堂の隣の洗面室だ」


 あまりにもそのままの答えに、ノエルが眠そうに頷いた。


「空間定義として正確」


 エリスが呆れた顔をし、ミレイユが今度こそ笑った。


 ユーリアも、ほんの一瞬だけ目を細める。


 笑った、と言うには小さすぎる。


 けれど包帯の手が、カップを少しだけ強く包んだ。


「私は、ここで何をしてよいのでしょう」


 彼女が聞いた。


 私は答える前に、全員を見る。


「まず、痛い時に痛いと言うこと」


 セシリアが続ける。


「手当てを断りたい時は、断ること」


 アイリスが言う。


「危険を見つけたら一人で片づけず、呼ぶこと」


 ノエルが淡々と足す。


「観察対象になりたくない時は、拒否すること」


「そこは最初から控えなさいな」


 ミレイユが突っ込み、サフィラは静かに笑う。


 エリスは最後に、短く言った。


「過去を語りたくない日は、語らないこと」


 ユーリアは一つずつ頷いた。


 汚れた手を洗い続ける代わりに、ここでの使い方を覚えていく。


 その不器用な練習こそ、今の彼女に必要な救出なのだと思った。


* * *


 朝食の鐘が鳴る少し前、屋敷の北廊下で影が揺れた。


 アイリスが剣を抜き、ノエルの測定具が短く鳴る。


 洗面室の窓枠に、黒い糸のような術式が絡んでいた。


 ユーリアが私の前へ出る。


 今度は、隠れるためではない。


「王家の影です。中へ入っています」


 彼女は包帯を巻いた手で、影縫いの構えを取った。


「私を回収しに来たのでしょう」


 廊下の奥から、低い声が落ちた。


「裏切り者」


 ユーリアの指が震えた。


 それでも彼女は、私の涙を拭いた手を下ろさなかった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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