第72話 燃やせなかった命令書
黒封の命令書は、燃やすにはあまりにも軽かった。
薄い紙一枚に、ユーリアの人生を処分する言葉が並んでいる。
即時帰還。監視対象から隔離。任務失敗による再調整。必要に応じて記憶削除。
人を人として扱わない単語ほど、王宮の筆記官は美しい字で書く。
私は書斎の暖炉に火を入れさせた。
命令書を燃やすためではない。燃やしたい衝動が、どれほど強いかを全員で見るためだった。
ユーリアは暖炉の前に立ち、黒封を両手で持っていた。侍女の姿勢は崩れていない。けれど親指が紙の端を何度も撫で、封蝋の縁を削っている。
「燃やせば、王家は写しを出すでしょう」
エリスが椅子の背にもたれた。
「残せば、彼女は命令と同じ部屋で眠ることになります」
ミレイユが扇を開かずに言う。
「写しを作って原本を隠す手もありますわ。でも原本の魔力痕は薄れる。裁判で使うなら残したい」
ノエルは暖炉の熱を測りながら、珍しく眠そうではない目をしていた。
「紙を燃やしても、術式は足首に残ります」
セシリアがユーリアを見る。
「でも、見るだけで痛いなら、しまっていいと思います」
それぞれの言葉が、ユーリアの手元へ落ちた。
彼女は命令書を炎へ近づける。
紙の端が茶色く縮む。
私は止めなかった。
止める言葉は、命令に似る。
彼女が燃やしたいなら、その選択も彼女のものだ。
けれど、火が封蝋へ届く寸前、ユーリアの手が止まった。
「燃やしたいです」
「ええ」
「でも、燃やしたら、私が何に縛られていたか消えます」
「ええ」
「消したいのに、消したくありません」
その矛盾を、誰も笑わなかった。
私も笑えなかった。
私の婚約書も、セシリアの聖約書も、消してしまいたい紙だった。だが燃やせば、何が奪われたのか証明できなくなる。紙は鎖であり、同時に鎖を見せる証拠でもある。
「なら、燃やさずに残す方法を一緒に選びましょう」
ユーリアが振り返る。
「私が選んでよいのですか」
「あなたの命令書でしょう」
「私を縛る紙です」
「だからこそ、扱い方はあなたが決めるべきよ」
彼女はしばらく炎を見た。
やがて黒封を暖炉から離し、机へ置く。
「原本は残します。私が逃げた証拠ではなく、王家と教会が私を使った証拠として」
アイリスが大きく息を吐いた。
「よく言った」
「褒められることではありません」
「褒めたい時に褒めるのも、こちらの選択だ」
ユーリアは困ったように目を伏せた。
その表情を、私は初めて見た気がした。
証拠箱を選ぶだけでも、私たちは長い時間を使った。
銀の箱は美しすぎる。罪を飾ってしまう。
鉄の箱は牢に似ている。ユーリアが黙って首を振った。
最後にミレイユが持ってきたのは、商会で契約解除済みの書類を保管する木箱だった。外側に飾りはなく、鍵穴だけが真新しい。
「終わった契約を入れる箱ですわ」
「まだ終わっていません」
ユーリアが言う。
「だから入れるの。終わらせる予定のものとして」
ミレイユの言い方は軽いが、目は真剣だった。
ユーリアは木箱の蓋を撫でる。
「燃やさないことは、従うことと同じではありませんか」
「違うわ」
私は黒封を指で押さえた。
「従うために残すなら鎖。裁くために残すなら証拠。眠れない夜に見張るためだけなら、あなたを傷つけるだけの紙になる」
「では、どうすれば」
「使い道を先に決めるの」
エリスが羽根ペンを差し出した。
「ラベルを書いてください。司書の仕事では、分類名が中身の扱いを決めます」
ユーリアはペンを持った。
しばらく迷い、木札へ一行を書く。
王家及び星冠教会による影契約処分命令。
その字を見て、アイリスが頷いた。
「君の処分命令、ではないのだな」
「はい。私を処分できるものとして扱った、彼らの命令です」
言い換え一つで、紙の重さが変わった。
セシリアが木箱の中へ柔らかい布を敷く。
「痛いものを入れる箱でも、乱暴に置かなくていいと思います」
「優しすぎませんか」
「紙にではなく、これを見るユーリアさんにです」
ユーリアはまた返事を失った。
サフィラが鍵を二つ用意する。一つはユーリアへ、一つは証拠管理としてエリスへ。
「王族として言うなら、鍵を分けるのは権限分散です。少女として言うなら、一人で抱えないためです」
ユーリアは鍵を受け取った。
握りしめるのではなく、掌に置いて重さを確かめている。
「命令書に鍵をかける側になるとは思いませんでした」
「これからは、そういう予想外を増やしましょう」
私は言った。
木箱を閉じたあと、ユーリアは暖炉へ一礼しかけて止まった。
「誰に礼をしようとしたの?」
「分かりません。命令書を焼かなかった火に、でしょうか」
「火にも選ばせてあげたら?」
私が言うと、彼女は少しだけ困った顔をした。
「火は燃えるものです」
「人も命令に従うものだと、あなたは教えられていたでしょう」
ユーリアは黙り、それから暖炉ではなく木箱へ向き直った。
「では、今日は燃えない火だったことにします」
その妙な言い方が、彼女らしくて、少しだけ笑えた。
暖炉の火はまだ燃えている。
けれど黒封は、燃えずに木箱の中で静かに横たわった。
* * *
命令書を証拠箱へ入れる前に、エリスが封蝋を調べた。
王家の黒冠印。その下に、肉眼ではほとんど見えない星冠の副署がある。
彼女は眼鏡を押し上げ、低く舌打ちした。
「ベネディクトの副署です」
書斎の空気が固まる。
サフィラが封書を覗き込み、王族としての顔になる。
「王家単独の処分命令ではない、ということですね」
「ええ。教会が、影の再調整を承認している」
ノエルが命令書の余白へ薄い魔導光を当てた。
隠れていた文字列が浮かぶ。
「対象令嬢との情動接続が認められる場合、切除を優先」
セシリアが小さく悲鳴を漏らした。
情動接続。
恋や忠誠や親しみを、病変のように呼ぶ字だった。
ユーリアはその文字を見て、逆に静かになった。
「私があなたを大切に思うことは、切り取るべきものなのですね」
「違うわ」
私は即座に言った。
「それは、あなたがあなたである証拠よ」
ユーリアの目が私へ向く。
暖炉の火が彼女の黒髪に赤く映った。
破約の薔薇が疼く。
まだ切れない。彼女自身が、自分の言葉で拒まなければならない。
ユーリアは命令書を証拠箱へ入れ、鍵をかけた。
「今夜は私が保管します」
「眠れる?」
「眠れません」
「なら、一人で見張らないで」
彼女は迷った末に頷いた。
その夜、私は書斎の長椅子に座り、証拠箱を挟んで彼女と向かい合った。
ユーリアは一度だけ、私の寝顔を確かめるように視線を上げた。
そして手袋を外しかけ、途中で止める。
燃やせなかった命令書の横で、触れられなかった手が静かに膝へ戻った。
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