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第71話 影縫いの聖約痕

 ユーリアの足首に浮かんだ青白い輪は、聖堂医師が見るまでもなく、ただの傷ではなかった。


 影が床へ貼りつき、彼女の膝を動かさない。


 命令に背いた罰が、影そのものから噛みついている。


「ベッドへ運ぶ」


 アイリスが腕を伸ばした。


 ユーリアは首を振る。


「影縫いが暴れます。近づかないでください」


「命令か?」


「警告です」


 その違いを言えたことが、痛ましいほど大きかった。


 私たちは廊下に簡易の診察場を作った。ノエルが床に白墨で円を描き、エリスが禁書目録の余白へ術式の癖を書き写す。セシリアは治癒の祈りを使おうとして、私と目を合わせた。


「本人に聞いてから」


「はい」


 セシリアはユーリアの前へ膝をつく。


「痛みを和らげる祈りをしてもいいですか」


 ユーリアはすぐには答えなかった。


 足首の痕がまた一度、星の形へ瞬く。


「私のために、祈ってくださるのですか」


「はい。命令ではなく」


「では、お願いします」


 セシリアの祈りは短かった。教会の定型句を削り、ユーリアの呼吸に合わせるだけの小さな祈り。青白い輪は消えなかったが、彼女の肩から力が少し抜けた。


 ノエルが測定具を覗き込む。


「影縫いの術式に、王家式の拘束印と教会式の聖約印が重なっています。単独の監視契約ではありません」


「つまり?」


「王家が使い、教会が縛った道具です」


 エリスが冷たく補う。


「もっと嫌な言い方をするなら、王家の影に見せかけた、星冠教会の首輪ですね」


 ユーリアの指が床を掴んだ。


 私はその手を見た。黒い手袋の先が白く擦り切れている。何度も手入れして、何度も使われて、まだ捨てられていない手袋。


「ユーリア。あなたはこの契約を覚えている?」


「幼い頃に、署名の仕方を教わりました」


「自分で選んだ?」


「選ぶという言葉を知りませんでした」


 胸が冷える。


 破約の薔薇が手首で熱を持った。だが、私はすぐには使えない。彼女が何を拒んでいるのか、私が決めてはいけないからだ。


「この痕は、あなたに何を命じているの」


「監視、報告、必要時の拘束、対象の移送補助」


「対象は私ね」


「はい」


「それを今も望む?」


 ユーリアは顔を上げた。


 答えようとした瞬間、痕が強く光り、彼女の声を潰した。


 アイリスが低く唸る。


「口封じか」


「拒絶語に反応しています」


 ノエルの声が鋭くなる。


「セシリア様の聖約痕と同じです。言わせない形で本人性を奪っている」


 セシリアの顔から血の気が引いた。


 彼女は自分の喉元を押さえ、それからユーリアへ静かに言った。


「言葉にならないなら、手で示してもいいです」


 ユーリアはかすかに頷く。


 私は白いハンカチを床へ置いた。


「移送命令を望むなら、右へ。望まないなら、左へ」


 乱暴な問いだと思った。


 けれど今、彼女から声を奪わずに済む方法はそれしかない。


 ユーリアの手が動く。


 影が指を縛る。


 それでも彼女は、ハンカチを左へ押した。


 青白い輪が火花を散らす。


 破約の薔薇が、私の手首で応えた。


「分かった」


 私は息を整えた。


「あなたが望まないものを、私は望ませない」


 ユーリアの瞳が揺れた。


 エリスは禁書目録の索引をめくり、古い契約例を見つけた。


「影契約は本来、成人後の再同意が必要です。十八歳を越えた後、本人が続行を望むか確認する条項がある」


「そんな確認、受けていません」


 ユーリアの声は平坦だった。


 平坦すぎて、逆に痛い。


 ノエルが測定具を足首の近くへ近づける。


「再同意欄が別術式で埋められています。筆跡ではなく、星冠記録術による代筆です」


 セシリアが小さく震えた。


「私の署名欄と同じ……」


「同系列です」


 エリスは頁を閉じた。


「教会は便利ですね。人の沈黙まで同意として保存できる」


 怒りが喉へ上がった。


 私はそれを言葉へ変える前に、ユーリアを見た。


 彼女は怒っていないように見える。けれど、足首の痕だけが彼女の代わりに荒く瞬いていた。


「八年前、王家の影に買われたと聞いたわ」


「はい」


「その時のことを、今聞いてもいい?」


 ユーリアは目を伏せた。


「詳しく話せるほど、覚えていません。寒い倉庫と、名前を書かされた紙と、手袋だけです」


「手袋?」


「刃を持つ手を隠すためだと教わりました。汚れた手を人前へ出すなと」


 その言葉が、後から胸を刺した。


 私は彼女の黒い手袋を見る。


 いつも完璧に整えられていた手袋は、彼女自身を隠す布でもあったのだ。


「ユーリア。今、その手袋を外したい?」


 彼女は驚いたように私を見る。


「ここで、ですか」


「外したくないなら、そのままでいい。外したいなら、外していい」


 長い沈黙。


 彼女は右手の手袋の端へ指をかけた。


 聖約痕が光る。


 外すな、と命じるように。


 それでも、彼女は手袋を半分だけ脱いだ。


 指先には古い傷がいくつもあった。刃の訓練、暗い場所での仕事、誰にも見せないまま治った傷。


 セシリアが息を詰める。


 アイリスは怒りを剣へ逃がさず、ただ拳を握った。


 私はその手へ触れなかった。


 今は、彼女が外したという事実だけを傷つけたくなかった。


「見せてくれてありがとう」


 ユーリアは手袋を握りしめた。


「見せたからといって、綺麗になるわけではありません」


「綺麗になるために見せたのではないでしょう」


 彼女は答えなかった。


 でも、手袋を戻さなかった。


 サフィラは、その手袋を王族の礼装を見るように丁寧に見た。


「隠すために与えられたものを、今は自分で外した。それは十分に政治的な意思表示です」


「手袋一つが、ですか」


「王女の手袋も、時に条約より雄弁です」


 ミレイユが頷く。


「商会でも同じですわ。帳簿を閉じる手と開く手では、意味が違う」


 ユーリアは半分脱いだ手袋を見つめた。


「では、今日は半分だけ開いたことにします」


「ええ」


 私はその答えに頷いた。


 その半分を、誰も急かさなかった。


 急かされない時間そのものが、彼女にはまだ珍しい贈り物だった。


 全部でなくていい。半分だけでも、彼女が自分で選んだなら、それは確かに前進だった。


 ノエルが記録を取る声だけが、廊下に静かに続いた。


 その時、玄関の鐘が三度鳴る。


 ミレイユの使いではない。王宮からの正式使者が鳴らす、短く高い鐘だ。


 サフィラが封蝋を見て、目を細めた。


「王家の黒封です。処分命令に使う色です」


 廊下の奥から、侍従が震える声で告げる。


「王宮より、ユーリア・ナイトレインの即時引き渡し命令です」


 床の影が、獣のように息をした。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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