第69話 侍女の報告書
エリスが指摘した影縫いの癖は、雨上がりの搬入口から屋敷へ戻っても、私たちの足元に残り続けた。
ユーリアはいつものように傘を畳み、濡れた外套を受け取り、誰よりも早く廊下の燭台を整えた。
ただ、その手つきが整いすぎていた。
乱れを隠すために礼法を使っていると、私はようやく気づいた。
「ユーリア」
「はい」
「あなたの影縫いに教会式が混じっていると、エリスが言ったわ」
彼女の睫毛がわずかに落ちた。
言い訳も、驚いたふりもない。
その沈黙だけで、答えの半分は出ていた。
私は応接室ではなく、記録室を開けさせた。そこなら机が広く、証拠を重ねても茶器を割らずに済む。セシリアは祈り布を膝に置き、アイリスは扉の前へ立ち、ノエルは測定具の針を静かに寝かせた。
ユーリアは棚の三段目から、黒い革表紙の薄い綴りを取り出した。
「王家の影への定時報告です」
ミレイユの扇が音もなく閉じた。
「あなた、いつから?」
「レティシア様にお仕えすることになった日からです」
答えは刃物のように短かった。
セシリアが息を呑む。サフィラは封書の角を指で押さえた。エリスだけが眼鏡の奥で、逃げ道ではなく入口を探すようにユーリアを見ていた。
私は綴りへ手を伸ばす前に、彼女へ確認した。
「読んでいいもの?」
「命令書では、私の所有物ではありません」
「命令書の答えではなく、あなたの答えを聞いているの」
ユーリアの喉が動いた。
「読んでください。私が何を差し出してきたか、隠したまま隣には立てません」
最初の頁には、舞踏会後の私の移動経路が細かく書かれていた。セシリアを学院女子寮へ移した時刻、王宮聴聞室で王太子と言い争った言葉、ヴァルトローゼ王都邸へ入った馬車の台数。
けれど、すべてではない。
セシリアが初めて眠れた夜のことは、体調安定とだけ記されていた。アイリスが剣を取り戻した日の涙は、近衛周辺に動揺ありと変えられていた。ノエルの研究ノートに花弁が増えたことも、ミレイユが買った噂の出所も、サフィラが密かに握った手の温度もない。
報告は裏切りだった。
同時に、守るために削られた空白でもあった。
「私たちを売ったのね、と言えば簡単ですわ」
ミレイユが静かに言った。
「でもこの抜け方、商品台帳なら値段を隠す時の筆です。全部を渡す気はなかった」
「それでも渡している」
アイリスの声は硬い。
ユーリアは否定しなかった。
「はい」
「なぜ言わなかった」
「言えば、ここにいられなくなると思いました」
「監視役として?」
「侍女としてもです」
その一語で、記録室の空気が変わった。
私は手袋の指先を整えた。怒りはある。怖さもある。彼女の報告で王家に知られたことが、いつ刃になって戻るか分からない。
けれど、ここで彼女の口を塞げば、私は王家と同じことをする。
「ユーリア。あなたは命令で報告した。そこまでは事実ね」
「はい」
「では、命令にない空白は誰が作ったの」
彼女は答えなかった。
かわりに最後の頁を開く。
そこだけ筆跡が崩れていた。雨に濡れたのではない。手首の震えが、細い線を何度も折っている。
「対象は危険思想を有する。ただし対象の排除は、保護下の者たちへの甚大な損傷を招く」
ノエルが小さく眉を上げる。
「命令書式ではありません。これは意見です」
「影が意見を書くの?」
セシリアの問いに、ユーリアは長く黙った。
「書いてはいけません」
「でも書いたのね」
「はい」
私は最後の行へ目を落とした。
「次回以降、私への直接命令を求む。屋敷内の者への危害命令は遂行困難」
遂行不能ではない。
困難。
その弱い言葉が、彼女に残された精一杯だったのだと分かった。
私は綴りを閉じ、机の中央へ置いた。
「これは証拠として保管するわ。あなたを責めるためだけではなく、王家があなたをどう使ったか示すためにも」
「私は処罰を受けます」
「処罰を望むの?」
「望みません」
初めて、返事が即座に返った。
私は頷いた。
「なら、望まない罰を自分に下すのはやめなさい」
ユーリアの指が、報告書の角から離れた。
エリスが別の頁を指で押さえた。
「ここ、日付の間隔が空いています。王家の影なら、空白を嫌うはずです」
ユーリアは目を伏せる。
「その日は、セシリア様が熱を出されました」
セシリアが驚いて顔を上げた。
「あの日のことまで、報告対象だったのですか」
「はい。聖女候補の体調は王家の関心事項でした」
「でも、書いていません」
「眠れた、とだけ書きました。泣いていたことも、レティシア様が夜明けまで椅子で待っていたことも、王家へ渡したくありませんでした」
セシリアの指が祈り布を握る。
怒っていい場面だった。傷ついて当然の場面だった。けれど彼女は怒りをすぐ優しさで覆わず、ゆっくり息を吸った。
「私は、勝手に見られていたことが怖いです」
「はい」
「でも、泣いたことを守ってくれたことは、今、少しだけ分かります」
ユーリアは返事を探し、見つけられないまま頭を下げた。
アイリスが別の頁を開く。
「私の剣帯の古さも書いてある」
「王家は騎士団内部の弱みを欲しがりました」
「では、私が泣いたことは?」
「書いていません」
「なぜ」
「あなたの涙は、武器にされるべきではないと思いました」
アイリスは剣帯へ触れたまま黙った。
ノエルが測定具を閉じる。
「感情の削除傾向が一貫しています。報告者の恣意的編集です」
「ひどい言い方ね」
「褒めています」
ミレイユが扇の端で報告書を叩く。
「商会なら帳簿改竄で叱りますわ。でも、人を売らないための改竄なら、別の帳簿に残す価値があります」
サフィラは王女として、冷静に告げた。
「この報告書は危険です。けれど、王家が私たちをどう分類していたかを示す外交資料にもなる。隠すだけでは足りません」
ユーリアは一つ一つの言葉を受け止めていた。
裁かれるためではなく、初めて同じ卓で話し合うために。
私は綴りの上へ手を置いた。
「この部屋の鍵は、あなたが持つ?」
「私が持てば、また隠せます」
「では、誰が持つのがいいと思う?」
ユーリアは考えた。
「原本はエリス様へ。写しはミレイユ様へ。閲覧には、私と関係者本人の同意を必要としてください」
エリスが頷く。
「司書としては妥当です」
ミレイユが笑う。
「商会としてもね」
自分を罰するのではなく、扱い方を決める。
それは小さなことに見えて、ユーリアが命令の外へ出る最初の実務だった。
その時、窓の外で黒い鳥が一羽、濡れた欄干を蹴った。足に結ばれた細い筒が、王家の影の印を帯びている。
アイリスが剣帯へ手をかけるより早く、ユーリアの影が床を走った。
鳥は落ちない。ただ動きを止めたまま、窓辺で羽を震わせる。
「返書が来るには早すぎます」
ユーリアの声が低く沈む。
筒の中には、黒い紙片が一枚だけ入っていた。
「帰還せよ。次の茶席で対象を眠らせること」
記録室の灯が、ひどく冷たく見えた。
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