第68.5話 禁書司書は恋の索引を作れない
聖堂図書館の奥、禁書棚の前にだけ古い木の香りが残っている。
エリスは脚立の上で本を戻しながら、こちらを見ずに言った。
「その本は左から三番目。間違えて二番目を抜くと、司書が三日ほど口をききません」
「司書はあなたでしょう」
「はい。私は根に持つ司書です」
私は言われた通り三番目の本を抜いた。
表紙には聖約改竄の古い記録が挟まれている。
危険な証拠を扱っているはずなのに、エリスの声はいつも皮肉で薄く覆われていた。
真実を裸で持つには、彼女の手は傷つきすぎているのだろう。
机に本を置くと、索引札が一枚落ちた。
そこには、レティシア・ヴァルトローゼ、分類不能、と書かれていた。
「エリス」
「見なかったことにしてください」
「床に落ちたものは拾う主義なの」
「悪い主義です」
脚立から降りたエリスは、私の手から札を奪おうとして、寸前で止まった。
彼女は本を乱暴に扱わない。
それどころか、紙片ひとつにも敬意を払う。
私はその慎重さが好きだった。
「分類不能とは、どういう意味?」
「文字通りです。あなたは告発者、保護者、危険人物、貸出禁止資料、閲覧者、破約の術者、その他諸々に該当します」
「最後のその他諸々が気になるわ」
「気にしないでください。健康に悪い」
エリスは眼鏡を押し上げた。
白い髪の下で耳だけが少し赤い。
私は索引箱を覗いた。
セシリアには聖女候補、アイリスには武力協力者、ノエルには魔導研究者と丁寧な札が並んでいる。
私の札だけ、書き直した跡で紙がけば立っていた。
「何度も分類し直したのね」
「司書の仕事です」
「私のことばかり?」
「あなたは問題を増やしますから」
言い返しながらも、エリスは小さな帳面を開いた。
そこには貸出記録ではなく、短い走り書きが並んでいる。
レティシア様は古書を開く前に手袋の埃を払う。
レティシア様は本の背を折らない。
レティシア様は真実を道具にしても、真実を捨て駒にしない。
私は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
エリスが私を見ていたのは、顔や肩書きだけではない。
本の扱い方、記録への触れ方、逃げ道を残す癖。
誰かを信じる前に、彼女はそうした細部を読んできたのだ。
「真実は人を救わない、とあなたは言ったわね」
「今でも半分はそう思っています」
「残り半分は?」
エリスは黙って、禁書棚の鍵を机に置いた。
「真実だけでは救えません。でも、真実を一緒に持つ人がいれば、逃げ道の地図くらいにはなります」
「それを私に貸してくれるの?」
「貸出期限は未定です。延滞料は高いですよ」
「何を払えばいいの」
彼女は索引札を見つめた。
しばらくして、分類不能の下に新しい文字を書き足す。
共同保管者。
「これで少しは司書らしいでしょう」
「恋の索引ではないのね」
エリスはペン先を折りそうな顔をした。
「その単語を禁書棚で口にするのは危険です」
「なぜ」
「私の整理能力が崩壊します」
私は笑った。
彼女は不満げに眉を寄せたが、索引札を箱の奥へ戻さず、机の見える場所に置いた。
まだ完成していない分類を、隠さないと決めたように。
その夜、私たちは古い記録を写し続けた。
エリスは皮肉を言い、私は時々それに返した。
窓のない書庫では時間が分かりにくい。
けれど、彼女が私のために温い茶を淹れ直した時、索引札の端に小さな薔薇の印が増えていることに気づいた。
尋ねると、エリスは本棚の陰へ逃げた。
「分類補助記号です」
その声は、いつもの皮肉より少し柔らかかった。
私は札を戻さず、彼女の隣で茶を飲んだ。
分類できないものを急いで名前にしなくてもいい。
エリスが捨てずに棚へ残すと決めたなら、それだけで今夜は十分だった。
書庫を出る時、エリスは索引箱に鍵をかけなかった。
「不用心では?」
「あなたがまた来るなら、開ける手間を省けます」
それは招待にしては回りくどく、告白にしては司書らしすぎた。
私は次に持ってくる茶葉を、廊下を歩きながら考え始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




