第68話 禁書司書は逃げ道を書く
禁書棚の最奥には、外へ続く搬入口があった。
そこは立派な脱出口ではない。古い木箱、破れた覆い布、雨で膨らんだ扉。司書が廃棄本を運び出すための通路だとエリスは言った。扉の上には小さな星冠印があるが、煤と埃で半分隠れている。
「ここから出るの?」
「出られます。問題は、出た後です」
「後はサロンへ」
言いかけて、私は止めた。
エリスが私を見る。彼女は私が言葉を飲み込んだ理由を、たぶん正確に分かっていた。
「誘拐犯になりたくない?」
「あなたの逃げ道を、私の屋敷へ向かう一本道にしたくない」
「面倒な善良さですね」
「よく言われるわ」
「でしょうね」
* * *
搬入口の横には、小さな机があった。
エリスはそこへ禁書目録の写し、未分類索引の写し、欠けた行の反射記録、赤い糸を挟んだ聖歌集を並べた。紙の山は、彼女が抱えてきた夜の数に見えた。
「これを持って出れば、私は聖約違反者です」
「置いて出れば」
「ただの逃亡司書です。どちらも響きがよくありません」
アイリスが木箱をどかしながら言う。
「なら、護衛対象だ」
「騎士の方はすぐ守る名前を付けたがりますね」
「守りやすい」
「単純で羨ましい」
「よく言われる」
アイリスは真面目に頷いた。エリスが返答に困る。私は笑いそうになり、今度は隠さなかった。
ユーリアは扉の外の影を確認している。彼女の横顔はいつも通り静かだが、エリスを見る目に少しだけ同類を見る色があった。命令の内側で生きてきた者同士にしか分からない距離なのかもしれない。
* * *
エリスは司書証を外した。
黒い紐に吊られた小さな証票。聖堂図書館の鍵束と結びつき、彼女の職務と檻を同時に示すものだ。
「これを置いていけば、追跡は遅れます」
「置きたい?」
「分かりません」
彼女は初めて、分からないと言った。
私はそれが嬉しかった。強がりでも皮肉でも結論でもない言葉。迷いをそのまま出せるなら、ここは少しだけ逃げ道になっている。
「分からないなら、選択肢を書きましょう」
「逃げ道を?」
「ええ。あなたは司書だから」
エリスは机の上の古い紙を一枚引き寄せた。羽ペンを持つ手が、少し迷ってから動き出す。
一つ、司書証を置き、証拠だけ持って出る。
一つ、司書証を持ち、職務ごとサロンへ移す。
一つ、司書証を複写し、原本を聖堂へ残す。
一つ、目録の写しを三つに分け、別々の道へ逃がす。
書きながら、エリスの呼吸が整っていく。逃げるとは、ただ走ることではない。選べる道を紙へ戻すことなのだと、私は彼女から教えられていた。
* * *
外で鐘が鳴った。
同時に、搬入口の向こうで馬車の車輪が止まる音がした。教会のものではない。ローゼン商会の印が入った小型馬車だ。
ミレイユが扉の隙間から顔を出した。
「お迎えに上がりましたわ。廃棄本の買い取りという名目で」
「違法では」
エリスが尋ねる。
「合法ですわ。廃棄予定の紙を買い取る契約書がありますもの。中身が紙で、しかも価値があるだけです」
「詐欺師の論理ですね」
「商人の論理です」
ミレイユは誇らしげだった。
サフィラからの封書も届いていた。国外使節用の保護封。もし教会が馬車を止めれば、隣国王女の外交文書を検閲することになる。サフィラらしい、優雅で鋭い逃げ道だ。
エリスは封書を見て、長く黙った。
「私のために、ここまで」
「あなたのためだけではありません」
私は正直に言った。
「この目録にいる、まだ名前も知らない人たちのためでもある。でも、今この扉を越えるのはあなた。あなたの足が一番大事」
エリスは司書証を見下ろした。
* * *
彼女が選んだのは、三つ目だった。
その前に、エリスは二つ目の案へ線を引かなかった。職務ごとサロンへ移す。その行は残したままにした。今すぐ選ばない道も、消さずに置く。彼女らしい逃げ方だった。
「未練ですか」
ミレイユが柔らかく尋ねる。
「保留です。司書は分類不能の箱を作っておくものですから」
「まあ、商会にも似た棚がありますわ。後で高く売れるかもしれないものを入れます」
「私は売り物ではありません」
「もちろん。だから席料はいただきません」
エリスは反論しようとして、やめた。ミレイユの笑顔は強い。逃げ道には、正面から扉を壊す力だけでなく、笑顔で通行料を踏み倒す力も必要なのだと私は学んだ。
ユーリアが影から小さな針を抜いた。司書証の紐に縫い込まれていた追跡印だ。
「これで、しばらく追われにくくなります」
「しばらく、ですか」
「永久とは申しません」
「誠実ですね」
「仕事ですので」
二人の短いやり取りは乾いていたが、不思議と相性が悪くなかった。
司書証を複写し、原本を聖堂に残す。けれど鍵束からは、禁書目録の隠し鍵だけを外して持つ。自分が司書だった事実を捨てないまま、教会に所有される印だけを置いていく。
ノエルが複写を作り、ユーリアが影で追跡印を潰し、アイリスが扉を押さえる。
その間に、私はエリスが書いた選択肢の紙をもう一枚写した。彼女は不思議そうに見る。
「それも証拠に?」
「いいえ。サロンの玄関に置くため」
「玄関に逃亡計画を飾るのですか」
「逃げて来た子が、選択肢を書いていい場所だと分かるように」
エリスは黙った。冗談で返すかと思ったが、返ってこない。代わりに彼女は紙の端へ小さく追記した。
逃げた後に笑ってもよい。
「これは重要項目です」
「司書の分類で?」
「人間の分類で」
私はその一行を見て、胸の奥が柔らかく痛んだ。逃げる者は、逃げた後も罪悪感を背負わされる。笑うことまで許可がいると思わされる。だからこそ、エリスはそこへわざわざ文字を置いたのだ。
「玄関に置くなら、その一行は消さないでください」
「もちろん」
彼女は満足したように頷き、司書証の複写へ視線を戻した。ミレイユの馬車には空箱が積まれ、その底に目録の写しを分けて入れた。
エリスは最後に、搬入口の机へ一枚の紙を残した。
禁書司書は逃げ道を書く。
その下に、細い字で続ける。
真実は誰も抱きしめない。けれど、真実を隠す棚の位置が分かれば、次の子は別の扉へ向かえる。
「置き手紙?」
「いいえ。目録です。最初の一行だけですが」
エリスはそう言って、私へ向き直った。
「レティシア様。私はあなたのものにはなりません」
「もちろん」
「サロンのものにも、まだなりません」
「ええ」
「ですが、あなた方の隣で目録を書きます。逃げる人が、逃げた後にどこへ行けるかまで」
胸の奥が熱くなった。
私は手を差し出さなかった。代わりに、搬入口の外を指す。
「では、最初の道をあなたが選んで」
エリスは扉を開けた。
雨上がりの匂いが流れ込む。彼女は禁書目録の鍵を握り、振り返らずに一歩を踏み出した。
その背中を追って外へ出た時、ユーリアの影縫いが一瞬だけ足元で揺れた。エリスがそれを見て、低く呟く。
「その術式、教会式が混じっていますね」
ユーリアの足が止まった。
エリスの逃げ道は、まだ閉じていない。次の扉の前で、影の契約がまた枝分かれした。
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