第67話 皮肉屋の祈り
エリスは祈祷机の引き出しから、赤い糸を取り出した。
聖堂図書館の小礼拝室は、書架の陰に隠れるように建っている。訪れる人は少ないらしく、椅子の座面には薄い埃が残っていた。けれど祈祷机だけは磨かれている。誰かがここだけを使い続けていたのだ。
「祈るの?」
「いいえ。訂正します」
エリスは古い聖歌集を開いた。余白に細かい字がびっしり書き込まれている。神よ導きたまえ、という文の横に、導く前に出口の位置を明記してください、とある。
私は思わず声を漏らした。
「笑いましたね」
「ごめんなさい」
「構いません。姉も笑いました。枢機卿は笑いませんでした」
セシリアが私の隣で聖歌集を覗き込む。彼女は怒るかと思ったが、静かに微笑んだ。
「これは、祈りですね」
エリスの眉が跳ねた。
* * *
祈りとは、清らかな言葉だけでできているわけではない。
セシリアはそう言った。彼女の声は、聖堂の石壁へやわらかく吸い込まれる。
「怖い時に、怖いと書くこと。神様に怒ること。誰かに次は逃げてと残すこと。それも祈りだと思います」
「聖女候補に認定されると、皮肉への耐性が上がるのですか」
「レティシア様の周りにいると、だいたい上がります」
「私のせい?」
セシリアはにこりとした。否定はなかった。
エリスは聖歌集の余白へ赤い糸を挟んでいく。改竄された聖約文、拒絶条項、消された索引、欠けた行。それぞれに対応する祈りの頁があるらしい。
「姉は、逃げる子が聖歌集を開くと考えていました。禁書目録を読める子は少ない。でも祈りの本なら、誰でも手に取れる」
「だから皮肉を道しるべにしたのね」
「ひどい姉でしょう」
「賢いお姉様です」
セシリアが即答した。
エリスは視線を逸らした。耳が少し赤い。
* * *
小礼拝室の扉が叩かれたのは、赤い糸が五本目の頁に挟まれた時だった。
教会代理人が立っていた。昨日の告発状とは別の男だ。白い法衣に銀の鎖。声は低く、礼儀正しい。
「クローチェ司書。あなたの身柄保護について、枢機卿猊下より命が下りました」
エリスの指が糸を握る。
私は前へ出ようとして、セシリアに袖を引かれた。彼女は首を振る。今度は彼女が前へ出た。
「保護は、本人の同意なしに祝福へ変わりません」
代理人はセシリアを見て、わずかに表情を硬くした。
「ルミエール嬢。あなたは聖女候補として、教会の保護を理解しているはずです」
「理解しています。だから、怖いのです」
その言葉は静かだった。けれど小礼拝室の空気を変えた。
セシリアはエリスの隣に立つ。祈り布を胸元で握り、震えを隠さない。
「私は、保護という名で連れて行かれそうになりました。私のためだと言われました。でも、私が嫌だと言った時、その声は祈りとして扱われなかった」
代理人は黙った。
エリスが、赤い糸を聖歌集へ結んだ。
「私は司書です。身柄ではなく、職務があります。祈りの本を訂正している途中なので、お引き取りください」
「祈りを訂正するとは、不敬な」
「誤字を放置するほうが不敬です」
アイリスが廊下で一歩動いた。代理人はそれ以上踏み込まなかった。
* * *
代理人が去った後、エリスは椅子に座り込んだ。
「足が笑っています」
「よく立っていたわ」
「褒めるなら、もっと遠回しにしてください。慣れていません」
「では、あなたの赤い糸の結び方は実用的で美しい」
「それは司書を口説く言葉ですか」
セシリアが小さく咳をした。今度は本当に笑いを隠す咳だった。私まで頬が熱くなる。
「違うわ。たぶん」
「たぶん、ですか」
エリスの口元が少しだけ上がった。
その表情を見て、私は初めて、彼女がサロンへ来た後の姿を想像した。書架を勝手に並べ替え、ノエルと夜更かしし、ミレイユの高い茶を疑い、セシリアの祈りに余計な注釈を入れる。きっと面倒で、騒がしく、少し甘い。
けれど今はまだ、彼女を連れて帰ると言えない。エリス自身が、自分の足で出口を選ばなければならない。
彼女は聖歌集の最後の頁を開いた。そこにはイレーネの筆跡で一文だけ書かれている。
神が扉を閉じるなら、司書は裏口の場所を写しなさい。
エリスは笑った。泣きそうな笑いだった。
「本当に、ひどい姉です」
「ええ。とても頼もしい」
私は赤い糸の端を持ち、彼女が結ぶのを手伝った。
小礼拝室の奥には、禁書棚の最奥へ続く細い通路があるという。けれどエリスはすぐには立たず、聖歌集を膝に置いた。
「セシリア様」
「はい」
「あなたは、まだ祈れますか」
問いは鋭かった。セシリアは少し考え、祈り布を両手で包む。
「前と同じ祈り方は、できません。誰かに望まれた清い言葉だけを口にすると、喉が痛くなります」
「では、なぜ聖歌集を笑わなかったのです」
「ここに書かれた皮肉が、誰かを外へ出そうとしていたからです。私も、そういう祈りなら覚えたい」
エリスは俯いた。白い髪が頬に落ちる。
「姉が聞いたら、嫌な顔をして喜びます」
「では、いつかお会いできたら、嫌な顔をさせます」
セシリアが真面目に言うので、エリスはとうとう小さく笑った。
「あなた方は、希望を脅迫のように使いますね」
「サロン流です」
私が言うと、セシリアが小さく頷いた。
エリスは聖歌集を閉じ、初めて自分から私の手袋の袖を引いた。
「行きましょう。逃げ道を書くなら、最後の棚を開けなければ」
通路へ入る前、セシリアは聖歌集の表紙へそっと触れた。
「ここに残していくのですか」
「持ち出せば、次に来た子が読めません」
「では、写しを作りましょう。ここにも残して、外にも持つ」
セシリアは祈り布の端をほどき、細い糸を一本抜いた。赤い糸の隣に白い糸を結ぶ。エリスが驚いた顔をした。
「それは聖女候補の祈り布では」
「はい。もう、誰かに清さを証明するためだけの布ではありません」
白と赤の糸が、聖歌集の背で小さく交差する。皮肉と祈り。怒りと願い。どちらか一つにしなくていいのだと、その結び目が言っているようだった。
エリスは結び目を見つめ、低く呟く。
「姉が見たら、また余白に文句を書きます」
「なら、余白を空けておきましょう」
セシリアが答える。
エリスは聖歌集を棚へ戻した。今度は隠すのではなく、見つけられる位置へ。
棚へ戻した後、彼女は背表紙の角度を少しだけ直した。几帳面な司書の癖だ。逃げ道でさえ、彼女は読みやすく整える。
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