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第66話 星冠記録術の欠けた行

 煤の匂いは、閲覧台に染みついていた。


 聖堂図書館の地下には、火災で閉じられた旧閲覧室がある。表向きは十年前の燭台事故。エリスによれば、燃えたのは本棚ではなく、星冠記録術で保存された証言の一部だった。


 ノエルは嬉しそうだった。


「燃え残り。好き」


「不穏な趣味ですわね」


 ミレイユが扇で鼻先を覆う。今日は彼女も来ている。燃えた紙の購入先、修繕費、事故後に増えた寄付金。金の流れを見るには、彼女の目が必要だった。


 エリスは旧閲覧台の前で立ち止まり、黒く焦げた縁を指でなぞった。


「ここに、姉が写した記録があります。正確には、欠けた行があります」


「欠けた行?」


「消す途中で、火が先に走った。消しきれなかった文です」


* * *


 星冠記録術は、証言や契約を光の行として紙へ焼きつける。


 ノエルが説明してくれた。普通のインクより改竄に強い。けれど教会は、強いものほど支配したがる。原本の近くで祈り文を上書きすれば、記録は神前文として再固定される。


「上書きに失敗した場所が、欠けた行」


 ノエルは硝子板を台へ置いた。


 薄い光が走り、黒焦げの紙に白い線が浮かぶ。文字は途中で切れていた。


 ……本人の拒絶が確認された場合、聖約は婚姻効力を……


 そこから先が焼け落ちている。


 私は息を吸えなかった。


「本人の拒絶」


 セシリアの声が頭に浮かぶ。あの日、彼女は拒んだ。アイリスも、ノエルも、ミレイユも、サフィラも。それでも制度は彼女たちを戻そうとした。


 エリスは静かに言った。


「本来の聖約には、拒絶条項があった。本人が拒めば、婚姻効力は止まる。姉はそれを見つけた」


 ミレイユの扇が閉じた。


「では、教会と王家は、拒絶できる制度を拒絶できない制度へ売り替えたのですわね」


「売り替えた、という表現は正しいと思います。事故後、教会への寄付金が増えていますから」


 エリスの皮肉が、今日は少し苦い。


* * *


 欠けた行の続きを読むには、反射記録が必要だった。


 燃えた紙は文字を失っているが、閲覧台の銀縁には光の反射が残る。ノエルは目を輝かせ、銀縁に頬を近づけた。


「徹夜案件」


「今は昼よ」


「気持ちが徹夜」


 ミレイユがため息をつき、携帯用の甘い菓子を差し出した。ノエルは受け取り、無表情で嬉しそうに食べる。


 エリスはその光景を不思議そうに見ていた。


「あなた方は、証拠の前でよく食べますね」


「倒れたら読めないから」


「正論が生活臭い」


「サロンでは、生活が一番しぶといの」


 エリスは返事をしなかった。けれど菓子を一つ受け取り、端を小さくかじった。


 ノエルの硝子板に、欠けた行の続きが薄く浮かぶ。


 ……停止し、当人の自由意思確認が完了するまで、いかなる移送、婚姻、奉仕拘束も無効とする。


 ミレイユが小さく息を吐いた。


「これがあれば」


「ええ。全員の事件がひっくり返る」


 言いながら、私は喜べなかった。


 この一行があったのなら、セシリアは連れて行かれずに済んだ。アイリスは剣を奪われず、ノエルは研究を盗まれず、ミレイユは商談へ売られず、サフィラは外交の駒にされずに済んだかもしれない。


 紙の一行は軽い。失われた年月は重すぎる。


* * *


 エリスが突然、銀縁の別の場所を指した。


「ここにも残っています」


 ノエルが硝子板をずらす。焦げた反射の中に、別の署名が浮かんだ。


 ヴァルトローゼ。


 私の家名だった。


 ミレイユが私を見た。ノエルも顔を上げる。エリスの表情は硬い。


「これは」


 私は声が掠れるのを感じた。


 ヴァルトローゼ家は王家に対抗できる名門だ。けれど、名門であることは清白の証明ではない。母方の親族が教会へ寄付していたことも、王太子妃教育で何度も聞かされた。


 エリスは私を責めなかった。それがかえって痛かった。


「署名の前後が欠けています。関与か、監査か、抗議かはまだ分かりません」


「調べるわ」


「あなたに不利でも?」


「ええ」


「あなたの周りの方にも?」


「隠せば、同じことをする側になる」


 言った瞬間、白手袋の中で指が冷えた。


 ミレイユが扇を閉じたまま言う。


「調べるなら、資金の線はわたくしが見ます。ヴァルトローゼの名が寄付台帳にあるなら、金額と時期で嘘はつけません」


 ノエルは硝子板を抱えた。


「術式の線は私。眠いけど、怒ってる」


 エリスは二人を見て、それから私を見た。


「あなたは、不利な行を消さないのですね」


「消したくなるかもしれない。だから、あなたに見ていてほしい」


 エリスの目が揺れた。


 旧閲覧室の煤の匂いの中で、欠けた行はようやく言葉を取り戻した。けれど次に浮かんだのは、私自身の家名だった。


 証拠は味方だけを照らさない。その冷たさを抱えたまま、私はエリスへ頷いた。


 彼女は、皮肉を言わなかった。


 沈黙の中で、私は焦げた閲覧台へもう一度目を戻した。ヴァルトローゼの署名の近くには、薔薇の花弁に似た印が半分だけ残っている。母が使っていた便箋の封印と同じ形だった。幼い頃、私はその印を綺麗だと思っていた。今は、綺麗なものほど何を覆ってきたのか考えずにいられない。


「母の部屋に、古い寄付台帳があるかもしれない」


 ミレイユがすぐに反応した。


「公爵家の帳簿を拝見する許可を?」


「私が取る。父にも話すわ」


「荒れますわね」


「ええ」


 言うだけで胃が重くなる。王家と教会を相手にするより、家の古い扉を開けるほうが怖いこともある。


 エリスは焦げた行を見つめたまま言った。


「不利な記録を自分から探す人は、司書としては扱いやすいです」


「人としては?」


「面倒です」


「そこは否定しないわ」


 ノエルが硝子板を抱きしめるように持ち、眠そうに頷いた。


「面倒。でも必要」


 ノエルの短い言葉に、エリスが少しだけ笑った。


「必要なら、面倒でも保管します。司書ですから」


「では保管して。私が逃げたくなった時に見せて」


 自分で言って、胸が苦しくなった。私は強い人間ではない。不利な証拠を前にして、いつでも正しくいられる保証などない。彼女たちを守りたい気持ちと、守るために都合の悪いものを伏せたい誘惑は、紙一枚の近さで並んでいる。


 ミレイユが静かに私の白手袋へ触れた。


「逃げたくなったら、まずお茶にいたしましょう。逃亡計画はその後でも立てられますわ」


「止めてはくれないの?」


「止めますわ。でも、泣きながら止めるより、温かい茶を出してから止めるほうが効率的ですもの」


 その実務的な優しさに、私は少し笑えた。


 エリスは欠けた行の写しを封筒へ入れた。表には、拒絶条項、未確定、と書く。断定しない誠実さが、今は何より頼もしかった。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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