第65話 司書は告発者にならない
エリスは告発状を読まずに裏返した。
ヴァルトローゼ王都邸の小さな書斎には、朝の光が斜めに入っている。ミレイユが用意した茶は高価すぎる香りがして、エリスは一口飲む前から疑っていた。
「毒ではありませんわ」
「毒でないものほど、後で請求書が来ます」
「まあ。よく分かっていらっしゃる」
ミレイユは楽しそうに扇を開いた。エリスはさらに警戒した。私は二人の間に置かれた告発状へ視線を落とす。
差出人は匿名。内容は、聖約改竄の内部証言者としてエリス・クローチェを聖約裁判へ立たせる、というものだった。聞こえは正しい。だが文面には、彼女本人の意志を尋ねる言葉が一つもない。
「告発者になれば、保護を受けられると書いてある」
「保護室は鍵のかかる部屋です」
エリスは即答した。
「私は司書です。告発者ではありません」
* * *
アイリスは窓際に立ち、庭の門を見ていた。ユーリアは廊下にいる。セシリアはエリスの向かいで、祈り布を膝に置いたまま口を挟まない。今日はそれが優しさだった。
告発状の封蝋には、王宮聴聞室の補助印が押されている。王家が教会内部の証人を欲しがっているのは明らかだ。王太子は、自分たちが聖約改竄の被害者側だと主張するつもりなのだろう。
「王家も教会も、あなたの名を使いたい」
「便利ですね。普段は書架の奥に置いておくくせに」
「私も使いたいと思っている」
書斎が静かになった。
ミレイユの扇が止まり、セシリアが顔を上げる。アイリスの肩にも力が入った。
エリスだけが、私をまっすぐ見た。
「正直ですね」
「隠したら、あなたはもっと怒るでしょう」
「はい」
「だから先に言う。私はあなたの知識を必要としている。でも、あなたを告発台へ縛るために救ったわけではない」
「まだ救われていません」
「そうね。だから、ここから選ぶ」
エリスは告発状を裏返したまま、指で封蝋の跡をなぞった。
* * *
昼前、王宮聴聞室の使者が来た。
彼は丁寧に礼をし、さらに丁寧に逃げ道を塞いだ。
「クローチェ司書には、聖約裁判準備のため任意同行をお願いしたい。内部告発者としての安全は王宮が保証します」
任意という言葉の後ろに、馬車と護衛が見える。保証という言葉の奥に、鍵付きの部屋がある。
エリスの手が椅子の肘掛けを掴んだ。
私は立ち上がらなかった。先に立てば、彼女の代わりに戦う形になる。今日はそれをしてはいけない。
「クローチェ司書」
使者が促す。
エリスは深く息を吸った。
「私は、王宮の告発者にはなりません」
「恐れながら、これはあなた自身の保護にも関わる」
「保護とは、本人の行き先を本人へ聞いてから使う言葉です」
セシリアが小さく頷いた。彼女は誰よりその重さを知っている。
使者は眉をひそめる。
「では、あなたは教会側に残ると」
「いいえ。私は司書として、記録を管理します。私自身を告発状の表紙にするつもりはありません」
声は震えていた。けれど最後まで途切れなかった。
* * *
使者は私を見た。
「ヴァルトローゼ嬢、これは証人隠匿と見なされる可能性があります」
「彼女は証人である前に人です。本人が拒否した同行を、私の屋敷から連れ出すなら、正式な令状をお持ちください」
「裁判で不利になりますよ」
「不利を避けるために、また誰かの意志を削るなら、私たちは最初から負けています」
アイリスが一歩だけ動いた。剣は抜いていない。ただ、その一歩で使者の背筋が伸びる。ミレイユはにこやかに帳簿を開き、王宮馬車の使用記録について質問する準備を始めた。サフィラはいないが、彼女なら外交抗議の文面をもう考えているはずだ。
使者は告発状の写しを置いて帰った。
扉が閉まると、エリスは椅子に沈み込んだ。強がりの糸が切れたようだった。
「怖かった」
彼女は小さく言った。
「はい。今のは、かなり怖かったです」
セシリアが席を立ち、エリスの前へ温かい茶を置いた。祈りでも説得でもなく、ただ茶を置く。その仕草が優しかった。
「私も、保護と言われて連れて行かれそうになりました」
セシリアは静かに言う。
「その時、レティシア様が私へ聞いてくれました。行きたいか、行きたくないか。だから今、同じことをあなたに返したいです」
エリスは茶へ視線を落とした。
* * *
午後、私たちは告発状を解体した。
ノエルが封蝋の魔力を調べ、ミレイユが紙の仕入れ先を割り出し、アイリスが使者の護衛人数を記録する。エリスは告発状の文面に朱を入れた。
「ここ。内部告発者という表現が三度出ます。本人名より多い」
「役割名で上書きしているのね」
「ええ。司書であることを消したいのでしょう。司書は本を選びますが、告発者は告発台へ置かれる」
「なら、裁判には司書として出る方法を考える」
エリスが顔を上げた。
「出すのですか」
「出るかどうかはあなたが決める。でも、出るなら告発者ではなく、禁書目録の管理者として。あなたの仕事を奪わせない」
彼女は朱筆を握り直した。
「仕事を褒められるのは、慣れていません」
「練習しましょう」
「嫌です」
「では少しずつ」
「もっと嫌です」
その拒否には、朝より温度があった。
夕方、エリスは告発状の余白へ一文を書いた。
私は告発者ではない。私は、消された記録を本来の棚へ戻す司書である。
その字は細く、硬く、けれど逃げなかった。
エリスは書き終えた紙を、私ではなくセシリアへ見せた。セシリアは両手で受け取らず、机に置かれたまま覗き込む。自分のものにしないための距離だった。
「とても、エリス様の言葉です」
「褒めていますか」
「はい。少し怖くて、少し優しい」
「聖女候補の評価は抽象的ですね」
「レティシア様の周りにいると、抽象的なものを信じる練習になります」
私は横で咳払いをした。ミレイユが扇の陰で笑っている。
エリスは紙を折らずに封筒へ入れた。折れば持ち運びやすい。けれど彼女は折らなかった。告発者という名で畳まれそうになった自分を、今はまっすぐなまま残したかったのだと思う。
「この返答を王宮へ送ります」
「送れば、向こうは怒るわ」
「怒るでしょうね」
「怖い?」
「怖いです。でも、王宮に連れて行かれて丁寧に保管されるほうが、もっと怖い」
その言葉を聞いて、私は封筒の宛名を書いた。
次に必要なのは、消された行そのものを読むことだ。エリスは朱筆を置き、煤の匂いがする閲覧台の名を口にした。そこに、星冠記録術の欠けた行が残っているという。
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