第64話 禁書目録の鍵
禁書目録の鍵は、金属ではなかった。
エリスが私に見せたのは、薄い象牙色の読書札だった。親指ほどの小さな札に星冠印が押され、裏には人名を書く欄がある。鍵と呼ぶには軽すぎて、しおりと呼ぶには冷たすぎる。
「これで棚が開くの?」
「棚ではなく、目録が開きます」
エリスは聖堂図書館の写本室を内側から施錠した。ここは窓が高く、外の巡回からは机の影しか見えない。ノエルが来ている。彼女は眠そうな顔で硝子板を並べ、読書札から漏れる微かな魔力を拾っていた。
「人名認証。古い。悪趣味」
「簡潔な感想をありがとうございます、アルカード様」
「褒めた」
「どこをですか」
「古いものは、解析しやすい」
ノエルは本当に褒めている顔だった。エリスは困ったように眼鏡を押し上げる。私はそのやり取りに少し救われた。証拠の部屋で、眠そうな研究者と皮肉な司書が噛み合わない会話をしている。それだけで、この場は教会のものではなくなる。
* * *
読書札に最初に書かれていた名は、イレーネ・クローチェだった。
その上から薄く別の名が重ねられている。ベネディクト枢機卿の署名印。人の名前に、人の権限を被せる術式だ。
「姉は目録を開けた。枢機卿はその権限を奪った」
「奪った鍵で、さらに記録を書き換えたのね」
「ええ。姉が見た本を、姉が見ていないことにした。姉が書いた警告を、枢機卿の監査記録へ変えた」
ノエルが硝子板を傾ける。青白い線が浮かび、二つの名の境目で途切れた。
「破約の薔薇と似ている」
「どこが」
「本人の名を焦点にして、外側の命令を剥がす。逆向きだけど」
私は白手袋の指を見た。
破約の薔薇は、本人が拒んだ鎖を切る。なら、この鍵に重ねられた権限も、イレーネ本人の名がまだ奥に残っているなら剥がせるのか。
エリスは私の考えを読んだように首を振った。
「危険です。死者の名に術式を通せば、反動が来ます」
「死者と決まったわけではない」
言ってから、私は自分の声の強さに驚いた。
エリスも驚いた顔をした。彼女が一番言いたくて、一番言えなかった可能性だったのだと気づく。
* * *
鍵を使うには、目録台へ読書札を差し込む必要があった。
写本室の中央にある台座は、聖堂の小さな祭壇に似ている。神へ祈るためではなく、紙へ服従を誓わせるための祭壇。エリスが札を置くと、台座の縁に細い文字が浮かんだ。
閲覧者名を提示せよ。
エリスは羽ペンを取った。
「私の名を書きます」
「待って」
「公爵令嬢の名では開きません。司書権限が必要です」
「あなたの名を書くと、教会に記録が残る」
「もう残っています」
「増やしたくない」
エリスは苛立ったように私を見た。
「では、どうします。姉の名を使いますか。あなたの破約で死人まで起こしますか」
「怒っていいわ」
「怒っています」
「うん」
「そこで頷くの、本当に腹が立ちます」
エリスの声が震えた。ノエルは硝子板から顔を上げず、けれど羽ペンをそっとエリスから遠ざけた。
私は読書札の裏を見た。人名欄の下に、小さな補助欄がある。閲覧立会人。普段なら無視される欄だろう。
「二人で書けない?」
「何を」
「あなたを閲覧者、私を立会人にする。責任を分けるのではなく、追跡を二本にする」
ノエルが目を瞬いた。
「いける。古い術式は欄を信じる。書式に弱い」
「教会の制度を、教会の書式で殴るのですね」
エリスが言った。
「比喩よ」
「ミレイユ様なら本当に殴ります」
「否定しづらいわね」
初めて、エリスの口元に笑みが乗った。
* * *
私とエリスは、同じ読書札に名を書いた。
エリス・クローチェ。立会人、レティシア・ヴァルトローゼ。書いた瞬間、台座の文字が揺れ、枢機卿の署名印が薄く剥がれた。完全には消えない。だが奥にあったイレーネの名が、細い光で浮かび上がる。
目録が開いた。
禁書名の一覧ではなかった。そこに並んでいたのは人名だ。聖女候補、騎士令嬢、研究者、商会の娘、隣国王女。私が救ってきた彼女たちの名と、まだ知らない少女たちの名。
「禁書目録は、本の目録ではなく、聖約に逆らう可能性のある人の目録」
エリスの声は乾いていた。
私は台座に手を置いた。冷たい。けれど、もうただ怖いだけではない。
「だから姉は、人に合わせろと言ったのね。本を探すのではなく、人を探す鍵だった」
「救う気ですか。全員を」
「今ここで全員をとは言えない。でも、少なくとも目録から消される前に名前を写す」
ノエルがすでに硝子板へ複写を始めていた。
「写す。速い。徹夜は嫌だけど、これは面白い」
エリスは台座の光を見つめ、ゆっくり頷いた。
「面白いで済むなら、姉は消えませんでした」
「ええ」
「でも、面白いと思える人がいるなら、まだ目録は死んでいないのかもしれません」
廊下で鐘が鳴る。台座の光が弱くなる前に、私は目録の一番下へ視線を落とした。
そこには新しい登録候補として、エリス・クローチェの名があった。
エリスはその名を見ても叫ばなかった。代わりに、読書札を机へ伏せる。伏せた札の縁から、青白い光がまだ漏れていた。
「登録候補ということは、まだ確定ではありません」
「そうね」
「つまり、私は棚に入る前の本です」
「本にたとえるのが癖なのね」
「人にたとえるより安全ですから」
私は彼女の隣で目録を見た。登録候補の欄には、危険思想、逃亡補助、聖約疑義の三つの印がある。どれも罪のように見えるが、私には生きようとした証に見えた。
「この欄を写しましょう」
「私の名を?」
「ええ。あなたが狙われていることも、裁判の材料になる。けれど出し方は選ぶ。あなたを晒すのではなく、制度が次に誰を棚へ入れようとしているかを示すために」
エリスは目録から目を離さない。ノエルが静かに硝子板を差し出した。
「複写、本人確認付きにする。勝手に使えない形」
「便利ですね、あなた方」
「便利なだけで終わらせないわ」
私が言うと、エリスは読書札をもう一度表に返した。
目録台の光が弱まり始めた。古い術式は長く開かない。ノエルが慌てず、けれど速度を上げる。硝子板に名が流れ込み、消える前の星のように瞬いた。
「全員は無理」
「どこまで写せる?」
「改竄印が濃い順。危ない順」
エリスが即座に索引束をめくった。
「聖女候補、次に奉仕誓約、次に婚姻移送。地方修道院は後回しにしないでください。中央より監視が緩い分、消える時は早い」
彼女の声に迷いはなかった。自分の名が登録候補にあると知った直後なのに、目はもうほかの名を追っている。
「あなた、自分の危険を後回しにしすぎよ」
「司書は返却期限の近い本から処理します」
「人を本にたとえない練習は?」
「本日休講です」
私はため息をつき、ノエルの横で写しの順番を書き留めた。エリスの無茶を止めるには、まず同じ表の上に乗らなければならない。
その作業が終わる頃、読書札の光は細くなり、目録台は静かに閉じた。
彼女もまた、禁書目録の中で管理される側へ移されようとしていた。
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