第63話 姉の消えた索引
目録室の床は、歩くたびに低く鳴った。
聖堂図書館の奥にあるその部屋は、祈りの場というより仕分け場だった。壁一面に抽斗が並び、札、紐、封蝋、古い鍵が秩序正しく収まっている。人の人生を薄い紙へ畳むための部屋だと思うと、整然としているほど息が詰まった。
エリスは床に膝をつき、七番目の板を爪で弾いた。
「ここから下は、公式には存在しません」
「非公式の床下収納?」
「教会では、都合の悪いものを地下、奥、祈り、沈黙のどれかへ入れます。床下は比較的誠実ですね」
皮肉を言いながら、彼女は薄い工具を差し込む。板が持ち上がると、埃ではなく乾いた花の匂いがした。
「花?」
「姉の癖です。紙魚よけにラベンダーを入れる。司書らしいでしょう」
「妹思いにも見えるわ」
エリスの手が止まった。
* * *
床下の抽斗には、未分類索引が入っていた。
札は細い糸で束ねられ、表紙代わりの紙にイレーネ・クローチェの署名がある。エリスはそれをすぐ開かなかった。指先で署名の端をなぞり、何かを飲み込むように喉を動かす。
「読んでもいい?」
「本来は駄目です」
「本来ではない答えは」
「私が読む間、隣で黙っていてください」
私は頷いた。
アイリスとユーリアは入口にいる。ここへは二人しか入れないほど狭い。エリスと私の肩が、抽斗を覗き込むたびに触れそうになる。彼女は距離を詰められることに慣れていないらしく、少し動くたびに袖を気にした。
索引の一枚目には、セシリアの名があった。二枚目にはアイリス。三枚目にはノエル。まだ私が彼女たちを救う前の日付で、聖約改竄の疑いが記されている。
「姉は、あなた方の事件を先に見つけていました」
「私が動く前に?」
「ええ。断罪舞踏会より前です。姉は王太子妃教育の資料請求から、聖女候補の登録簿へつながる不自然な移動を見つけた」
私の背筋が冷えた。
前世の記憶を持っていたから、私は破滅を知っていると思っていた。けれどこの世界には、私の知らないところで破滅の帳簿を追っていた人がいた。その人はもう、ここにいない。
「消えたのは、いつ」
「舞踏会の三日前。姉は私に、目録の鍵は本ではなく人に合わせなさいと言いました。意味が分からなかった。分からないまま、翌朝には部屋が空でした」
エリスは笑おうとした。失敗した。
* * *
抽斗の奥から、小さな索引札が落ちた。
そこにはイレーネ自身の名が書かれている。貸出者、調査者、保護対象。三つの欄すべてに同じ名。最後の欄だけ、朱線で消されていた。
「保護対象?」
「姉は、自分も危ないと知っていた」
「誰へ保護を求めるつもりだったの」
エリスは首を振る。
「分かりません。姉は人を信用しない人でした。私と違って」
「そこは似ていると思うわ」
「失礼ですね」
「褒めているの」
「もっと失礼です」
短いやり取りの後、エリスは索引札を握りしめた。紙が折れそうになり、私は手を伸ばしかけて止める。今それを取り上げれば、守るふりをした略奪になる。
エリス自身が気づいた。彼女は息を吸い、札を平らに戻した。
「姉の索引は、裁判で使えますか」
「使える。でも、あなたの姉を証拠にする」
「もう、されました。教会に」
「私たちは違う形で扱いたい」
「どう違うのです」
私は索引束を見下ろした。
「彼女が消された人ではなく、残した人だと分かる形で」
エリスは答えなかった。けれど索引束を胸に抱いたまま、少しだけ私のほうへ体を向けた。
* * *
入口でユーリアが指を二度鳴らした。
合図だ。誰かが近づいている。アイリスが扉の前へ移動し、私は抽斗の蓋を戻す。エリスは未分類索引を司書服の内側へしまおうとして、手を止めた。
「隠すの?」
「隠すしかありません」
「違う場所へ移すことはできる」
「公爵家へ?」
「いいえ。あなたが選ぶ場所へ。私の屋敷でも、サロンでも、聖堂の別室でも。選ぶのはあなた」
エリスの目に、疑いと疲れと、ほんの少しの怒りが浮かぶ。
「選べと言われるのは、怖いですね」
「私も怖いわ。選ばせる側は、責任を相手へ返したつもりで逃げられるから」
「では、なぜ言うのです」
「逃げないために。あなたが選んだ後、その選択を守るところまで引き受けたい」
扉の外で、修道士の声がした。
「クローチェ司書、目録室にいるのですか」
エリスは索引束を見つめた。長い沈黙の末、彼女は束の半分を私へ差し出す。
「写しを取ってください。原本は私が持ちます」
「分かった」
「私が死んだら、原本もあなたへ」
「その条件は受けない」
私は即答した。
エリスが目を見開く。
「死んだ後の手続きを相談する前に、生きて出る手順を決めるわ」
アイリスが扉の向こうへ答えた。
「公爵家の立会い中だ。しばらく待て」
修道士は不満そうに何か言ったが、アイリスの声を聞いて引いたらしい。足音が遠ざかる。
エリスは索引束の半分を私に預けた。紙は驚くほど軽かった。けれど受け取った腕は、剣より重いものを持ったように感じた。
束の中には、まだ知らない少女たちの名もあった。地方修道院の見習い、騎士団の補助書記、商家の養女。どの名にも、婚姻、奉仕、移送のどれかの印が添えられている。私が前世で知っていた物語には出てこない人たちだ。だからこそ、紙の上の小さな文字が現実の重さで迫ってきた。
「ゲームの外にも、こんなに」
思わず漏れた言葉に、エリスが首を傾げる。私はすぐに首を振った。
「ごめんなさい。こちらの話」
「意味不明な独り言は、司書としては分類に困ります」
「未分類に入れておいて」
「姉の抽斗をそれ以上混雑させないでください」
その返しが少しだけ姉妹の会話のようで、エリス自身も気づいたのだろう。彼女は唇を引き結び、けれど索引束を取り返そうとはしなかった。
「次は鍵です」
「禁書目録の?」
「はい。姉は鍵を本ではなく人に合わせろと言った。その意味を、たぶん今なら読めます」
エリスは床板を戻し、ラベンダーの匂いを閉じ込めた。
閉じる直前、彼女は乾いた花を一つだけ取り出した。指先に乗るほど小さい。紫はすっかり褪せて、灰色に近い色になっている。
「持っていくの?」
「紙魚よけです」
「本当は」
「……姉の匂いを全部閉じ込めたままにするのが、急に嫌になりました」
その答えに、私は何も言わなかった。慰めの言葉は、時々、相手の悲しみをこちらの理解できる形へ削ってしまう。
エリスはラベンダーを小さな紙へ包み、索引束とは別の胸ポケットへ入れた。証拠ではない場所へ。
私はそれを見て、彼女が姉を裁判へ差し出すだけの人ではないと改めて思った。姉の仕事を使う。姉の痛みを読む。けれど姉の匂いは、自分のために持っていく。
「次は鍵です」
消えた姉の索引は、消えた人の墓標ではなかった。まだ逃げられる誰かへ向けて、細い線を引いた地図だった。
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