第62話 真実は救わない
閉館後の閲覧台には、灯りが一つだけ残されていた。
聖堂図書館の夜は静かすぎる。紙をめくる音より、誰かが息を止める音のほうがよく聞こえる。エリスは燭台を三度置き直し、影が窓へ届かない角度を選んだ。
「ここでは小声で」
「盗み聞きされる?」
「いいえ。壁が信心深いので」
私は笑いそうになって、やめた。皮肉を軽く受け取るには、彼女の目があまりに疲れていた。
閲覧台の上には貸出記録簿が置かれている。分厚い革表紙の中央に星冠印。王宮の召喚状より古い紙なのに、こちらのほうがずっと重く見えた。
私は向かいに座らず、エリスの隣に立った。彼女はそれに気づき、わずかに眉を上げる。
「正面に座れば、尋問の形になるでしょう」
「公爵令嬢の気遣いは、時々余計に恐ろしいですね」
「慣れて」
「努力します。成功は保証しません」
* * *
エリスが開いた頁には、三行分の空白があった。
切り取られたのではない。インクが紙ごと薄くなり、文字だけが逃げたように消えている。ノエルなら術式の残滓を見るだろう。けれどここにいる私は、ただ冷たくなった余白を見つめるしかない。
「姉が最後に借りた禁書の記録です」
「名前は」
「イレーネ・クローチェ。私より真面目で、私より口が悪くなく、私よりずっと司書に向いていました」
「最後だけ疑わしいわ」
「姉の口の悪さを知っているのですか」
「あなたの姉なら、たぶん優しくない言い方で優しいことをする」
エリスは一瞬だけ目を伏せた。泣くのではなく、目の奥へ入ってきたものを押し戻す仕草だった。
「真実は人を救いません」
彼女は頁の端を押さえた。
「姉は真実を見つけた。聖約書の原文が、婚姻の同意ではなく、家名と血筋の移送契約へ変えられていると。見つけた結果、消えた。記録からも、部屋からも、私の未来からも」
言葉が刃物のように揃っていた。何度も心の中で読み上げて、痛む場所を覚えた言葉だ。
「だから、真実は救わない」
「ええ。救われるのは、真実を使える力を持つ者だけです」
* * *
扉の外を巡回する靴音が通り過ぎた。
アイリスは廊下側の柱の陰に立っている。剣を抜けば騒ぎになるから、彼女は抜かないまま背筋だけで壁になっていた。ユーリアは窓辺の影を踏み、そこから伸びる細い黒を自分の指へ絡めている。
私は貸出記録簿に触れた。
エリスが止めなかったので、頁の端を少しだけ持ち上げる。裏側には、消えたインクの滲みが残っていた。文字は読めない。だが三行目の末尾だけ、星冠記録術の符号が欠けている。
「ここは、誰かが後から消したのね」
「消したのではありません。正しく祈り直した、という扱いです」
「便利な祈りね」
「教会では大変重宝されています」
エリスの皮肉に、私は頷いた。
「真実だけでは救えない。でも、真実を隠す仕組みを見せることはできる」
「裁判官が見ると思いますか」
「見せ方を考えるの。セシリアの聖約痕、アイリスの叙任証、ノエルの術式比較、ミレイユの帳簿、サフィラの外交文書。別々の痛みを、同じ改竄へつなげる」
「あなたはいつも、他人の痛みを並べるのが上手ですね」
責められたのだと思った。だがエリスの声は、責めるには弱かった。
「ごめんなさい」
「謝るのですか」
「並べなければ戦えない。でも、並べられる側が傷つくことを忘れたくない」
エリスは、私の顔を長く見た。
やがて彼女は記録簿の横へ、小さな紙片を置いた。姉の筆跡で書かれた書架番号。そこには禁書名ではなく、別の司書の覚え書きが添えられていた。
「姉は、逃げる子のために索引を作っていました」
* * *
外の鐘が二つ鳴った。
聖堂図書館の規則では、二の鐘以降に閲覧台へ残る者は司書長へ名簿を出さなければならない。エリスは名簿を空白のまま閉じた。
「あなたも規則を破るのね」
「規則は嫌いではありません。壊す時に、どこが痛むか分かりますから」
「それで、痛む?」
「とても」
その答えが素直すぎて、私は言葉を失った。
エリスは記録簿を抱え、閲覧台の灯りを少し落とした。彼女の横顔は、先ほどより幼く見える。司書服と皮肉で覆っていても、姉を失った妹なのだと、ようやく私の胸に届いた。
「レティシア様」
初めて彼女が私の名を呼んだ。
「私は、あなたを信じたわけではありません」
「分かっているわ」
「あなたの周りにいる方々が、自分の言葉であなたの隣に立っている。それを見て、少しだけ羨ましくなっただけです」
「羨ましいなら、席を一つ空けるわ」
「勧誘が早い」
「断ってもいい」
「さらにずるい」
エリスは小さく息を吐いた。笑いではない。けれど笑いへ向かう前の、硬い氷が割れる音に似ていた。
彼女は消えた三行を写した薄紙を、私へ渡さず、自分の胸元へしまった。
その仕草を見て、私はセシリアの聖約書を初めて預かった夜を思い出した。紙を守ると言いながら、私は彼女の震えまで預かれると思い上がりかけた。紙は鍵になる。けれど鍵を持つ手が誰のものかを間違えれば、救出は別の支配に変わる。
「エリス」
「何ですか」
「あなたが持っていて。私には写しを見せるだけでいい」
「証拠保全としては不十分です」
「あなたの呼吸を保全するほうが先よ」
エリスは理解できないという顔をした。しばらくして、理解したくない顔になった。
「そういう言い方をされると、怒りづらい」
「怒ってもいいわ」
「では怒ります。公爵令嬢はずるい」
「その罪名なら、裁判で少し軽そうね」
彼女は薄紙を胸元にしまい直し、今度は隠すためではなく、自分の場所に置くための動きに見えた。
「次は目録室です。姉の未分類索引があります。そこを見れば、姉が何を消される前に残したか分かる」
「行きましょう」
扉へ向かう前、エリスは閲覧台の端を指で叩いた。そこには小さな傷が三つ並んでいる。
「姉は、考え事をすると机を叩く癖がありました。注意すると、机は反論しないからいいと言って」
「あなたも似ている?」
「私は本に失礼なのでしません」
「今、叩いたわ」
「これは引用です」
真顔で言うので、私はとうとう笑ってしまった。エリスは不満げにしたが、目元は少しだけやわらいだ。
真実は彼女を救わなかった。姉を帰してもくれなかった。けれど机の傷、薄紙の温度、小さな言い訳は、まだ彼女を世界につないでいる。裁判で大きな証拠にはならないかもしれない。それでも、消された人が確かに生きていたことを示すには十分だった。
「その傷も、覚えておきましょう」
「裁判官に机の傷を見せる気ですか」
「必要なら」
「本当に面倒な方ですね」
「よく言われるわ」
「真実は救いませんよ」
「ええ。でも、あなた一人に背負わせないことならできる」
エリスは返事をしなかった。
ただ、閲覧台の灯りを消す時、彼女の手はもう震えていなかった。
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