第61話 埃を払わない禁書棚
エリス・クローチェは、挨拶より先に私の白手袋を見た。
聖堂図書館の奥扉は閉館後にしか開かない。真鍮の鍵が三つ、祈祷鐘の余韻が一つ。案内役の修道士は扉の外で待つと言い、私たちを中へ入れると、逃げるように廊下へ戻った。
「公爵令嬢が埃を吸いに来る趣味をお持ちとは知りませんでした」
「あなたが持ってきた索引札に、埃の跡があったからよ」
エリスは眼鏡の奥で目を細めた。白い髪は首の後ろで無造作に束ねられ、黒い司書服の袖口だけが妙に清潔だった。彼女は紙の人間に見える。薄くて、折れやすくて、けれど火を近づければ一瞬で燃える怖さがあった。
私の後ろにはアイリスとユーリアだけがいる。全員で押しかければ、禁書棚ではなく戦場になる。セシリアは屋敷で召喚状の写しを読み、ノエルとミレイユは提出資料の整理、サフィラは外交文書の封蝋を選んでいる。
六人目の椅子は、甘い花束ではなく埃と索引の奥に隠れていた。
けれど、それでも椅子は椅子だ。
ここで私がするべきことは、証拠を奪うことではない。証拠を抱えた司書に、まだ扉を選べると思い出させることだった。
* * *
禁書棚は北端の壁に沿っていた。
ほかの書架は聖堂らしく磨かれているのに、その一列だけは灰色の膜をまとっていた。棚板の縁に指を近づけると、埃がふわりと震える。私は触れなかった。
「掃除を禁じているの?」
「違います。皆、見ないことにしているだけです。禁書棚の埃は責任を取らなくていい沈黙ですから」
エリスは梯子を引き寄せ、三段目で止まった。私は梯子の脚を押さえる。彼女は上から私を見下ろし、少しだけ意外そうにした。
「落ちたら困るでしょう」
「私が落ちても、あなたの裁判資料にはなりませんよ」
「あなたが怪我をしたら、資料より先に医師を呼ぶわ」
「甘いですね」
「ええ。今日は甘いほうでいくことにしたの」
アイリスが小さく咳をした。笑いを隠す咳だった。ユーリアは扉の影を見ているが、口元だけ少し緩んでいる。
エリスは最上段の索引箱を下ろした。箱の蓋は埃で曇っているのに、中央に細い線が一本ある。最近開けられた跡だ。しかも、蓋の端には触れた指跡が二種類あった。一つは細く、もう一つは手袋越しに押しつけたように太い。
「あなた以外も開けている」
「ええ。昨夜、教会代理人が来ました。禁書目録の再編命令を持って」
「再編とは」
「都合の悪い本に、新しい番号を与えることです。古い番号で探す者は永遠に棚の前で迷う。とても信仰深い迷路ですね」
皮肉は軽かった。けれどエリスの指先は、箱の留め金を外す時だけ震えた。
* * *
索引箱の中には、紙片が縦に並んでいた。
聖約書、婚姻記録、奉仕誓約、聖女候補登録簿。見出しだけなら清らかな制度の顔をしている。だが埃の付き方が不自然だった。抜かれた札の前後だけ、古い埃が崩れている。
「埃を払わないのは、消えた場所を残すためね」
「掃除係としては落第です」
「司書としては優秀だわ」
エリスは札を一枚抜いた。そこにはセシリア・ルミエールの名と、王太子との聖約補助番号が記されていた。私が破約の薔薇で断ち切った契約。その横に、朱ではない薄い灰色の印がある。
「改竄候補」
「候補ではありません。改竄済みです。灰印は、原文を神前文に置き換えた合図。原本の言葉が残っているうちは黒、消した後は灰」
私は息を止めた。
セシリアがあの日、王太子を拒んだ時。彼女の声は弱くなかった。それなのに周囲は、聖約があるから本人の意志は後回しだと言った。もし原文そのものが別の言葉へ置き換えられていたのなら、彼女が縛られたのは信仰ではない。誰かの筆だった。
「これを裁判へ出せば、教会はあなたを消しに来る」
「もう来ています」
エリスは棚の下を指した。埃の上に、靴跡がある。司書の軽い靴ではない。巡回兵の踵だ。
ユーリアが無言で扉へ近づいた。アイリスの手が剣帯へ落ちる。私は二人を止めず、エリスだけを見た。
「あなたは、なぜ私に見せたの」
エリスは笑わなかった。
「あなたがセシリア様を返したからです。王太子にも教会にも、本人へ」
その言い方に、胸の奥が痛くなる。私は返したつもりでいても、誰かから見れば奪った令嬢だ。けれどエリスは、あえて別の言葉を選んだ。
「姉も、同じことをしようとしました」
初めて、彼女の声から皮肉が消えた。
* * *
扉の外で足音が止まった。
ユーリアが影へ指を落とし、アイリスが私とエリスの間に半身を入れる。エリスは索引箱を抱えたまま、棚の陰へ身を寄せた。
「司書クローチェ。再編作業は終わったか」
扉越しの声は丁寧だった。丁寧な声ほど、命令を隠すのがうまい。
エリスが答えようとしたので、私は首を振った。代わりに一歩前へ出る。
「ヴァルトローゼ公爵家の調査中です。聖約裁判に提出する資料の確認をしています」
外が静かになった。
「許可証は」
「召喚状に、提出資料の確認義務が明記されています。王家と教会の連名でしたわね」
扉の向こうで舌打ちが聞こえた気がした。実際には、靴底が床を擦った音かもしれない。
「後ほど立会人を送る」
「では、埃を払わずにお待ちしています」
足音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。
エリスは索引箱を抱く腕に力を込めた。私はようやく棚板の埃へ指先を触れ、消えた札の跡を一つなぞる。
「あなたの姉の名は、ここにあったのね」
「ありました。今はありません」
「探しましょう」
「見つけても救われませんよ」
「救われるためではなく、消えた場所を消さないために」
エリスは長く黙った。その沈黙は拒絶ではなかった。禁書棚に積もった埃と同じで、誰かが触れるのを待っている沈黙だった。
彼女は索引箱の底から、角の欠けた札を一枚取り出した。
そこには名前の半分だけが残っていた。クローチェ。姉妹の家名。
エリスは札を見つめたまま、親指で紙の欠けを押さえた。
「姉の名を口にすると、図書館の人たちは黙ります。知らないのではなく、知っている顔で黙る。私はその顔を見るのが嫌で、ずっと埃のほうを見ていました」
「埃は黙っていても、嘘はつかないものね」
「ええ。人間より少しましです」
ひどい言い方なのに、私は頷いてしまった。王宮の舞踏会で浴びた視線を思い出したからだ。誰もが真実を知らないふりをし、役割だけを見ていた。悪役令嬢、聖女候補、王太子の婚約者。名前より先に札を貼られる苦しさを、私は知っている。
「なら、今日は人間も少しだけましだと証明したいわ」
「大きく出ますね」
「埃に負けたまま帰るのは悔しいもの」
エリスは呆れたように息を吐き、それでも索引札を箱へ戻さなかった。
「次は閲覧台へ。貸出記録に、姉の最後の足跡があります」
私は頷き、埃のついた白手袋を握った。
裁判の証拠は、紙だけではない。払われなかった埃もまた、誰かが消された場所を覚えている。
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