第58話 金と外交と朝の紅茶
翌朝の紅茶は、いつもより濃く淹れられた。ミレイユいわく、議題が重い日は香りが負けてはいけないらしい。サフィラはその理屈を気に入り、王女の茶会でも採用したいと真顔で言った。
長卓には、サロン運営案が並んでいた。資金、護衛、魔導記録、医療、外交、噂対策。甘い共同生活のはずが、気づけば小さな政庁のようになっている。
「役割を決めすぎると、また所有に見える」
私は言った。
「聖女だから祈る、騎士だから守る、商会令嬢だから金を出す。そう見えたら、私たちは王家と同じ過ちをする」
セシリアが頷く。
「私は祈りたい時に祈ります。命令ではなく」
アイリスは少し考えてから、剣帯に触れた。
「私は守ることを選ぶ。ただし、守られたい日もあると書いてほしい」
その一言に、全員が少し驚いた。アイリスは耳を赤くし、視線を逸らす。
ノエルがすぐに紙へ書いた。
「重要。騎士にも休憩が必要」
ミレイユは資金欄の横に、撤回可能と大きく書いた。
「私の貸付も、私が選び直せる条項を入れます。レティシア様がうるさいので」
「大事なことよ」
サフィラは外交欄に、自国への抗議文を自分名義で出すと記した。王女として国を捨てず、少女として自分を捨てない。その両方が同じ紙に並ぶ。
* * *
紅茶が二杯目に入った頃、差出人不明の索引札をもう一度確認した。蔵書番号の先頭に、禁書目録を示す小さな十字がある。
「禁書目録」
ノエルが呟く。
「教会が隠している聖約の原本索引かもしれない」
セシリアの顔が曇る。
「教会の中にも、誰かが助けようとしているのでしょうか」
「利害かもしれないし、罠かもしれない」
ミレイユが冷静に言う。
「でも、情報経路は追えますわ。紙質は聖都産、インクは図書館用。王宮の書記ではありません」
サフィラが索引札を見つめた。
「外交文書でも、索引でも、名前が残ることは大切です。消される前に辿りましょう」
私は頷き、サロン規約の最初に一文を書いた。ここにいる者は、役割ではなく本人の意思で仕事を選び、いつでも選び直せる。
長卓の空気が少し柔らかくなる。冷めかけた紅茶と笑い声があるから、次の書類へ戻る息を整えられる。
その朝、薔薇のサロンは名前だけでなく、規約を持った。金と外交と紅茶の香りの中で、私たちは初めて共同体として動き出した。
だが窓の外では、新聞売りが新しい見出しを叫んでいる。略奪令嬢、王女を囲う。
役割分担の紙が埋まるほど、私は不安になった。名前の横に仕事が並ぶ様子は頼もしい。けれど少し角度を変えれば、また彼女たちを機能として数える表にも見える。
「レティシア様、眉間」
ミレイユが扇で私の額を指した。
「そんなに難しい顔をなさると、予算が逃げますわ」
「予算は逃げるの?」
「逃げます。居心地の悪い帳簿からは、金も人も逃げます」
サフィラが真面目に頷く。
「外交官も同じです。居心地の悪い会議では、本音が逃げます」
ノエルが紙へ書く。
「本音の逃走経路。重要」
アイリスが困惑し、セシリアが笑う。場が少し緩んだところで、私は自分の不安を言葉にした。
「私は、あなたたちを守るつもりで、また役割に閉じ込めるかもしれない。それが怖い」
セシリアが最初に首を振った。
「怖いと言ってくださるなら、大丈夫です。命令する人は、自分が怖いとは言いません」
その言葉に救われる。守る側の私も、完璧ではないとここで言える。サロン規約は、彼女たちだけでなく私自身の暴走を止めるためにも必要だった。
ミレイユが規約の最後へ追記する。代表者レティシアも、参加者の異議申し立てを拒めない。
「私も縛るのね」
「縛るのではありません。逃げ道を美しく設計するのですわ」
なるほど、とノエルが頷いた。朝の紅茶は冷めかけていたが、その冷めた温度さえ心地よかった。熱に浮かされず、私たちは現実の規約を書いている。
規約を書き終えたあと、私たちは一度だけ仕事の話を止めた。セシリアが蜂蜜を追加し、アイリスが警備の巡回時間をずらし、ノエルは紙の上で眠りかけ、ミレイユが彼女の額にインクがつく前に紙を抜く。サフィラはその光景を、珍しい宝物のように見ていた。
「王宮では、朝の卓で誰かが眠ることはありません」
「ここでも本当はよくない」
私が言うと、ノエルが半分寝たまま反論する。
「研究者には必要」
「食卓よ」
「観察対象が多い」
サフィラが笑い、セシリアもつられて笑う。アイリスは笑いながらも窓の外を見ている。ミレイユはその全員を見て、採算が合わない茶葉の量だと呟いた。
この短い朝の甘さを、私は覚えておきたかった。裁判が始まれば、こういう時間ほど削られる。だからこそ、規約の余白に休息の項目を足した。月に一度では足りない。怖い日、痛い日、疲れた日、誰でも休むと言えること。
「サロンの規約に昼寝を入れるのですか」
サフィラが目を丸くする。
「王宮にはないでしょう」
「ありません。だから、少し革命的です」
その言葉に、皆が笑った。革命は大広間だけで起こるのではない。朝の紅茶に、休む権利を書き込むことから始まるのかもしれない。
昼前には、規約の写しを全員が一通ずつ持った。セシリアは祈祷書へ、アイリスは剣帯の内側へ、ノエルは研究記録へ、ミレイユは帳簿へ、サフィラは外交文書用の革筒へ入れる。
「私も持つべきでしょうか」
壁際のユーリアが珍しく尋ねた。
「もちろん」
私が一通を差し出すと、彼女は少し迷って受け取った。
「私は参加者ではなく侍女です」
「侍女でも、ここで働くなら選び直す権利があるわ」
ユーリアは返事をしなかった。ただ、写しを丁寧に畳み、胸元へしまう。その仕草を見て、私は規約が思ったより遠くまで届いたことを知った。まだ席には座らない影にも、逃げ道は必要なのだ。
午後、規約の写しをしまったあと、私は一人で長卓を見た。紙が増え、椅子が増え、責任が増えた。けれど不思議と、以前より息苦しくない。
ここは私が誰かを囲う場所ではない。誰かが自分の仕事を持ち込み、疲れたら休み、嫌なら選び直す場所だ。そう言い切るにはまだ弱い。けれど、弱い規約でも書かないよりはいい。
窓の外で新聞売りの声が遠く聞こえる。悪名は今日も走る。なら、私たちは悪名より遅くても、本人の言葉を一枚ずつ積むしかない。
悪名は、私たちより早く王都を走っていた。
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