表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/106

第56.5話 王女は攫われた後に口づけをねだる

 サフィラを客間へ案内した夜、窓の外ではレーヴェ王国の使節旗が雨に濡れていた。


 攫った、という言葉は便利だ。


 王宮は私を悪者にできる。


 使節は外交上の抗議文を書ける。


 けれど当の王女は、湯上がりの髪を肩に流したまま、私の机で便箋を選んでいた。


「青の封蝋は重すぎるかしら。白にしましょう。今夜は戦争を始める手紙ではありませんもの」


「あなた、落ち着きすぎでは」


「震えるのは、明日の朝でもできます」


 サフィラはそう言って微笑んだ。


 透き通る声はいつも通りなのに、指先だけが少し冷たい。


 私は彼女の前に温かい茶を置いた。


「無理に強がらなくていいわ」


「では、強がりを半分だけやめます」


 彼女は便箋の一枚を私へ向けた。


 そこには、私は自分の意思でヴァルトローゼ令嬢の保護を求めました、と丁寧な字で書かれている。


 攫われた姫ではなく、助けを求めた王女としての記録。


 それを作るために、彼女は震える手で一字ずつ線を引いていた。


「サフィラ。ここに、あなたの望みも書いて」


「望み」


「政治上の説明ではなく、あなた自身の言葉」


 彼女はペンを置いた。


 長い沈黙が落ちる。


 雨音だけが窓を叩いた。


「私の望みは、いつも国の形をしています」


 静かな声だった。


「戦を避けたい。母国の港を守りたい。人質ではなく使節として扱われたい。どれも嘘ではありません。でも、それだけを書けば、また私は便利な王女に戻ります」


 私は向かいに座り、彼女の冷えた指へ自分の手を重ねた。


 サフィラは逃げない。


「私を攫って、と言った時」


「ええ」


「あれは外交文書にできない言葉でした」


「する必要はないわ」


「でも、あなたには残してほしい」


 彼女は新しい便箋を取り、そこに短く書いた。


 私はレティシア様の隣へ行きたい。


 ただそれだけの行が、どの条約文より危うく見えた。


 同時に、どの条約文よりも彼女に似合っていた。


「保管するわ」


「鍵つきで?」


「私の引き出しの、一番奥に」


「では、対価をください」


 サフィラの声が少しだけ甘くなる。


 危険な外交官の顔ではなく、雨の夜にやっと自分の願いを言えた少女の顔だった。


「対価?」


「私は王女ですもの。大事な文書を預けるなら、印が必要です」


 彼女は自分の頬を指した。


 私は咳き込んだ。


「それは印ではなく、口づけでは」


「同じです。レーヴェ式の、極めて個人的な封蝋です」


「そんな慣習は聞いたことがないわ」


「今、作りました」


 サフィラは涼しい顔で言う。


 私は額に手を当てた。


 攫われた後の王女は、思ったより強かで、思ったより寂しがりだった。


 彼女は国を背負う。


 その重みを軽くすることは私にはできない。


 けれど、彼女が自分の願いを国の影に隠さずに済む夜なら作れる。


 私は椅子を立ち、彼女の隣へ回った。


「頬だけよ」


「今夜は、それで許します」


 その言い方に笑いそうになりながら、私は彼女の頬へ唇を触れた。


 湯上がりの肌は温かく、雨に冷えた指とは違っていた。


 サフィラは一瞬だけ目を閉じる。


 そして、便箋の上に白い封蝋を落とした。


「これで、攫われたのではなく、選んだ証になります」


「明日の使節への説明は、もう少し穏便にして」


「もちろん。公式文書には、口づけの件は書きません」


「当然です」


「でも、私の日記には書きます」


 止める間もなく、彼女は別の小さな手帳を開いた。


 私は手を伸ばしかけ、途中でやめた。


 その記録は、王女ではなくサフィラのものだ。


 彼女が自分の望みを隠さず書けるなら、少しぐらい私が困ってもいい。


 雨はまだ降っていた。


 けれど彼女の封蝋は、白く滑らかに固まっていく。


 その日記帳を閉じたサフィラは、しばらく封蝋の白を見つめていた。


「明日、私は王女として説明します。でも今夜だけは、少女として眠ります」


 私は頷き、客間の灯を一つ落とした。


 雨音の中で彼女が安心して目を閉じるまで、私は机の引き出しに預かった一行を何度も思い出していた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ