第56.5話 王女は攫われた後に口づけをねだる
サフィラを客間へ案内した夜、窓の外ではレーヴェ王国の使節旗が雨に濡れていた。
攫った、という言葉は便利だ。
王宮は私を悪者にできる。
使節は外交上の抗議文を書ける。
けれど当の王女は、湯上がりの髪を肩に流したまま、私の机で便箋を選んでいた。
「青の封蝋は重すぎるかしら。白にしましょう。今夜は戦争を始める手紙ではありませんもの」
「あなた、落ち着きすぎでは」
「震えるのは、明日の朝でもできます」
サフィラはそう言って微笑んだ。
透き通る声はいつも通りなのに、指先だけが少し冷たい。
私は彼女の前に温かい茶を置いた。
「無理に強がらなくていいわ」
「では、強がりを半分だけやめます」
彼女は便箋の一枚を私へ向けた。
そこには、私は自分の意思でヴァルトローゼ令嬢の保護を求めました、と丁寧な字で書かれている。
攫われた姫ではなく、助けを求めた王女としての記録。
それを作るために、彼女は震える手で一字ずつ線を引いていた。
「サフィラ。ここに、あなたの望みも書いて」
「望み」
「政治上の説明ではなく、あなた自身の言葉」
彼女はペンを置いた。
長い沈黙が落ちる。
雨音だけが窓を叩いた。
「私の望みは、いつも国の形をしています」
静かな声だった。
「戦を避けたい。母国の港を守りたい。人質ではなく使節として扱われたい。どれも嘘ではありません。でも、それだけを書けば、また私は便利な王女に戻ります」
私は向かいに座り、彼女の冷えた指へ自分の手を重ねた。
サフィラは逃げない。
「私を攫って、と言った時」
「ええ」
「あれは外交文書にできない言葉でした」
「する必要はないわ」
「でも、あなたには残してほしい」
彼女は新しい便箋を取り、そこに短く書いた。
私はレティシア様の隣へ行きたい。
ただそれだけの行が、どの条約文より危うく見えた。
同時に、どの条約文よりも彼女に似合っていた。
「保管するわ」
「鍵つきで?」
「私の引き出しの、一番奥に」
「では、対価をください」
サフィラの声が少しだけ甘くなる。
危険な外交官の顔ではなく、雨の夜にやっと自分の願いを言えた少女の顔だった。
「対価?」
「私は王女ですもの。大事な文書を預けるなら、印が必要です」
彼女は自分の頬を指した。
私は咳き込んだ。
「それは印ではなく、口づけでは」
「同じです。レーヴェ式の、極めて個人的な封蝋です」
「そんな慣習は聞いたことがないわ」
「今、作りました」
サフィラは涼しい顔で言う。
私は額に手を当てた。
攫われた後の王女は、思ったより強かで、思ったより寂しがりだった。
彼女は国を背負う。
その重みを軽くすることは私にはできない。
けれど、彼女が自分の願いを国の影に隠さずに済む夜なら作れる。
私は椅子を立ち、彼女の隣へ回った。
「頬だけよ」
「今夜は、それで許します」
その言い方に笑いそうになりながら、私は彼女の頬へ唇を触れた。
湯上がりの肌は温かく、雨に冷えた指とは違っていた。
サフィラは一瞬だけ目を閉じる。
そして、便箋の上に白い封蝋を落とした。
「これで、攫われたのではなく、選んだ証になります」
「明日の使節への説明は、もう少し穏便にして」
「もちろん。公式文書には、口づけの件は書きません」
「当然です」
「でも、私の日記には書きます」
止める間もなく、彼女は別の小さな手帳を開いた。
私は手を伸ばしかけ、途中でやめた。
その記録は、王女ではなくサフィラのものだ。
彼女が自分の望みを隠さず書けるなら、少しぐらい私が困ってもいい。
雨はまだ降っていた。
けれど彼女の封蝋は、白く滑らかに固まっていく。
その日記帳を閉じたサフィラは、しばらく封蝋の白を見つめていた。
「明日、私は王女として説明します。でも今夜だけは、少女として眠ります」
私は頷き、客間の灯を一つ落とした。
雨音の中で彼女が安心して目を閉じるまで、私は机の引き出しに預かった一行を何度も思い出していた。
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