第56話 王女は差し出されない
王宮の使者は、朝の光がまだ柔らかいうちに来た。外交保護令の執行。言葉だけなら丁寧だが、門の外には護衛馬車が二台待っている。
サフィラは青銀の髪を自分で結った。昨夜より簡素な結び方だったが、王女の姿勢は崩れていない。
「私、歩きます」
「どこへ?」
「王宮の馬車ではなく、あなたの馬車へ」
私は頷いた。攫うという言葉を、ここで形にする。ただし力ずくではない。本人の足で、本人の記録を持って、彼女が選んだ馬車へ移る。
玄関広間には全員がいた。セシリアは祈りの布を、アイリスは護衛配置図を、ノエルは指輪術式の写しを、ミレイユは返書と帳簿を用意している。ユーリアは影の位置を確認し、いつでも動けるように立つ。
使者は書面を読み上げた。サフィラは最後まで聞いてから、自分の紙を出した。
「私、サフィラ・レーヴェは、王宮保護下への移送を望みません。ヴァルトローゼ王都邸での一時滞在を、自分の意思で選びます」
使者が顔色を変える。
「王女殿下、その文書は外交上」
「外交上必要です。私は攫われたのではありません。自分で歩きます」
彼女は私の手を取らず、先に玄関の段を降りた。私は半歩後ろを歩く。守るために前へ出るのではなく、彼女の選択が見える位置で。
* * *
門前で、王宮の護衛が道を塞いだ。アイリスが静かに前へ出る。剣は抜かない。抜かずに立つだけで、騎士としての重みがある。
「本人の意思確認書があります。道を開けてください」
「王命が優先だ」
ミレイユが横から書面を掲げた。
「王命の写しと本人意思の写し、両方を記録官へ送りますわ。どちらを先に届けるか、選んでくださいませ」
ノエルが眠そうに指輪を示す。
「強制移送すると、術式反応が悪化する。医療事故になる」
セシリアがサフィラの背へ祈りを重ねる。
「無理に動かせば、喉の傷が開きます」
一人ずつの言葉が、馬車の前に柵を作った。甘い共同生活の延長ではない。彼女たちが自分の役割を自分で選び、サフィラの道を守っている。
使者は退いた。完全な勝利ではない。王宮はすぐに別の名で責めてくる。
サフィラは私の馬車の前で振り返った。
「レティシア様」
「はい」
「攫われるのは、思ったより忙しいのですね」
「あなたが国ごと捨てない攫われ方を望んだからよ」
彼女は笑った。涙の跡が残っているのに、王女としてとても美しい笑顔だった。
馬車が動き出すと、門の外に集まった野次馬が騒ぎ始めた。略奪令嬢が王女まで奪った。そういう声がもう飛んでいる。
サフィラは窓の外を見ず、自分の意思確認書へ署名を足した。
「この悪名は、私も半分持ちます」
「持たなくていい」
「いいえ。私はあなたに奪われたのではなく、あなたと選んだのですから」
サフィラが馬車へ向かう前、レーヴェ側の従者が人垣の端から進み出た。昨日王宮側へ走った男だ。アイリスが身構え、ユーリアの影が足元で動く。
従者は剣も書面も持たず、ただ深く頭を下げた。
「殿下。私は、あなたを守るつもりでした」
サフィラは立ち止まった。
「知っています」
「王宮へ伝えれば、乱暴な移送は避けられると」
「それも、分かっています」
「では、なぜ」
サフィラの声は静かだった。
「私へ先に聞かなかったからです」
従者は言葉を失う。責められるより、信じていた理屈の中心を抜かれた顔だった。
「あなたが私を大切に思ってくれたことまで否定しません。でも、私の代わりに怖がり、私の代わりに決めることを、忠誠と呼ばないで」
私はその言葉を聞きながら、ユーリアを思った。一番近くで私を守りながら、まだ命令と選択の境目に立っている侍女。サフィラの言葉は、彼女にも届いたかもしれない。
従者は膝をついた。
「では、殿下。私はどうすれば」
「私が選んだと、レーヴェへ書きなさい。王女が奪われたのではなく、王女が抗議のため滞在先を変えたと」
サフィラはそこで微笑んだ。
「難しい文章でしょう。けれど、あなたなら書けます」
裏切りを罰するのではなく、役目を選び直させる。彼女は王女として、すでに救われる側だけではなくなっていた。
馬車の中で、サフィラははじめて深く座席にもたれた。王女の姿勢を保つ力が抜け、青銀の髪が肩へ落ちる。
「疲れました」
「眠ってもいいわ」
「眠ったら、起きた時に王宮だったらどうしましょう」
その不安が冗談ではないと分かり、私は胸が痛んだ。
「私がいる。アイリスも、ユーリアも外にいる」
「信じています。でも、身体がまだ信じ方を知りません」
セシリアの時もそうだった。救い出した直後、身体は檻の外をすぐには理解しない。だから安心を何度も繰り返す必要がある。
私はサフィラの向かいに座り、彼女が眠るまで窓の外を見張った。ミレイユは小声で馬車費用を計算し、ノエルは指輪の写しを膝に広げ、アイリスは馬車の外で蹄の音に合わせて歩く。
サフィラは目を閉じる直前、かすかに言った。
「攫われたあと、こんなに人が多いとは思いませんでした」
「一人で攫うには、あなたが大切すぎるのよ」
返事はなかった。けれど彼女の指先から、少しだけ力が抜けた。
王都邸へ着くと、サフィラは馬車から降りる前に自分の靴先を見た。
「ここから先も、自分で歩きたいです」
「もちろん」
私は手を差し出さず、隣に立つだけにした。彼女は玄関までの石畳を一歩ずつ歩く。門の外ではまだ人々が騒いでいる。けれど、その声より石畳を踏む音のほうが、私には大きく聞こえた。
玄関でセシリアが待っていた。ミレイユが用意した席札を手にしている。サフィラはそれを受け取り、しばらく見つめた。
「私の席が、もうあるのですね」
「空けていました」
私が答えると、彼女は泣きそうな顔で笑った。
攫われた王女ではなく、席を選ぶ少女として、彼女は屋敷へ入った。
王都邸の玄関をくぐったあと、サフィラはすぐ振り返った。門の外に残る護衛馬車が、まだこちらを見ている。
「私、戻されませんよね」
その問いは王女ではなく、夜に眠れない少女のものだった。
「今日のところは」
私はあえて言い切らなかった。永遠の安全を約束する嘘より、今日を守る本当のほうが必要だと思ったから。
「では、今日を信じます」
サフィラは頷き、席札を胸に抱いた。今日を積み重ねれば、明日ができる。彼女の救出は、その小さな積み重ねから始まる。
王都邸へ戻る途中、教会の白い封筒が門へ届いた。聖約裁判準備の通達。サフィラを迎えた瞬間、次の戦いの鐘が鳴った。
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