表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

60/104

第56話 王女は差し出されない

 王宮の使者は、朝の光がまだ柔らかいうちに来た。外交保護令の執行。言葉だけなら丁寧だが、門の外には護衛馬車が二台待っている。


 サフィラは青銀の髪を自分で結った。昨夜より簡素な結び方だったが、王女の姿勢は崩れていない。


「私、歩きます」


「どこへ?」


「王宮の馬車ではなく、あなたの馬車へ」


 私は頷いた。攫うという言葉を、ここで形にする。ただし力ずくではない。本人の足で、本人の記録を持って、彼女が選んだ馬車へ移る。


 玄関広間には全員がいた。セシリアは祈りの布を、アイリスは護衛配置図を、ノエルは指輪術式の写しを、ミレイユは返書と帳簿を用意している。ユーリアは影の位置を確認し、いつでも動けるように立つ。


 使者は書面を読み上げた。サフィラは最後まで聞いてから、自分の紙を出した。


「私、サフィラ・レーヴェは、王宮保護下への移送を望みません。ヴァルトローゼ王都邸での一時滞在を、自分の意思で選びます」


 使者が顔色を変える。


「王女殿下、その文書は外交上」


「外交上必要です。私は攫われたのではありません。自分で歩きます」


 彼女は私の手を取らず、先に玄関の段を降りた。私は半歩後ろを歩く。守るために前へ出るのではなく、彼女の選択が見える位置で。


* * *


 門前で、王宮の護衛が道を塞いだ。アイリスが静かに前へ出る。剣は抜かない。抜かずに立つだけで、騎士としての重みがある。


「本人の意思確認書があります。道を開けてください」


「王命が優先だ」


 ミレイユが横から書面を掲げた。


「王命の写しと本人意思の写し、両方を記録官へ送りますわ。どちらを先に届けるか、選んでくださいませ」


 ノエルが眠そうに指輪を示す。


「強制移送すると、術式反応が悪化する。医療事故になる」


 セシリアがサフィラの背へ祈りを重ねる。


「無理に動かせば、喉の傷が開きます」


 一人ずつの言葉が、馬車の前に柵を作った。甘い共同生活の延長ではない。彼女たちが自分の役割を自分で選び、サフィラの道を守っている。


 使者は退いた。完全な勝利ではない。王宮はすぐに別の名で責めてくる。


 サフィラは私の馬車の前で振り返った。


「レティシア様」


「はい」


「攫われるのは、思ったより忙しいのですね」


「あなたが国ごと捨てない攫われ方を望んだからよ」


 彼女は笑った。涙の跡が残っているのに、王女としてとても美しい笑顔だった。


 馬車が動き出すと、門の外に集まった野次馬が騒ぎ始めた。略奪令嬢が王女まで奪った。そういう声がもう飛んでいる。


 サフィラは窓の外を見ず、自分の意思確認書へ署名を足した。


「この悪名は、私も半分持ちます」


「持たなくていい」


「いいえ。私はあなたに奪われたのではなく、あなたと選んだのですから」


 サフィラが馬車へ向かう前、レーヴェ側の従者が人垣の端から進み出た。昨日王宮側へ走った男だ。アイリスが身構え、ユーリアの影が足元で動く。


 従者は剣も書面も持たず、ただ深く頭を下げた。


「殿下。私は、あなたを守るつもりでした」


 サフィラは立ち止まった。


「知っています」


「王宮へ伝えれば、乱暴な移送は避けられると」


「それも、分かっています」


「では、なぜ」


 サフィラの声は静かだった。


「私へ先に聞かなかったからです」


 従者は言葉を失う。責められるより、信じていた理屈の中心を抜かれた顔だった。


「あなたが私を大切に思ってくれたことまで否定しません。でも、私の代わりに怖がり、私の代わりに決めることを、忠誠と呼ばないで」


 私はその言葉を聞きながら、ユーリアを思った。一番近くで私を守りながら、まだ命令と選択の境目に立っている侍女。サフィラの言葉は、彼女にも届いたかもしれない。


 従者は膝をついた。


「では、殿下。私はどうすれば」


「私が選んだと、レーヴェへ書きなさい。王女が奪われたのではなく、王女が抗議のため滞在先を変えたと」


 サフィラはそこで微笑んだ。


「難しい文章でしょう。けれど、あなたなら書けます」


 裏切りを罰するのではなく、役目を選び直させる。彼女は王女として、すでに救われる側だけではなくなっていた。


 馬車の中で、サフィラははじめて深く座席にもたれた。王女の姿勢を保つ力が抜け、青銀の髪が肩へ落ちる。


「疲れました」


「眠ってもいいわ」


「眠ったら、起きた時に王宮だったらどうしましょう」


 その不安が冗談ではないと分かり、私は胸が痛んだ。


「私がいる。アイリスも、ユーリアも外にいる」


「信じています。でも、身体がまだ信じ方を知りません」


 セシリアの時もそうだった。救い出した直後、身体は檻の外をすぐには理解しない。だから安心を何度も繰り返す必要がある。


 私はサフィラの向かいに座り、彼女が眠るまで窓の外を見張った。ミレイユは小声で馬車費用を計算し、ノエルは指輪の写しを膝に広げ、アイリスは馬車の外で蹄の音に合わせて歩く。


 サフィラは目を閉じる直前、かすかに言った。


「攫われたあと、こんなに人が多いとは思いませんでした」


「一人で攫うには、あなたが大切すぎるのよ」


 返事はなかった。けれど彼女の指先から、少しだけ力が抜けた。


 王都邸へ着くと、サフィラは馬車から降りる前に自分の靴先を見た。


「ここから先も、自分で歩きたいです」


「もちろん」


 私は手を差し出さず、隣に立つだけにした。彼女は玄関までの石畳を一歩ずつ歩く。門の外ではまだ人々が騒いでいる。けれど、その声より石畳を踏む音のほうが、私には大きく聞こえた。


 玄関でセシリアが待っていた。ミレイユが用意した席札を手にしている。サフィラはそれを受け取り、しばらく見つめた。


「私の席が、もうあるのですね」


「空けていました」


 私が答えると、彼女は泣きそうな顔で笑った。


 攫われた王女ではなく、席を選ぶ少女として、彼女は屋敷へ入った。


 王都邸の玄関をくぐったあと、サフィラはすぐ振り返った。門の外に残る護衛馬車が、まだこちらを見ている。


「私、戻されませんよね」


 その問いは王女ではなく、夜に眠れない少女のものだった。


「今日のところは」


 私はあえて言い切らなかった。永遠の安全を約束する嘘より、今日を守る本当のほうが必要だと思ったから。


「では、今日を信じます」


 サフィラは頷き、席札を胸に抱いた。今日を積み重ねれば、明日ができる。彼女の救出は、その小さな積み重ねから始まる。


 王都邸へ戻る途中、教会の白い封筒が門へ届いた。聖約裁判準備の通達。サフィラを迎えた瞬間、次の戦いの鐘が鳴った。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ