第55話 国境から来た返書
外交保護令は、夜明け前に王都邸へ届いた。サフィラ王女を一時的に王宮保護下へ戻すこと。理由は、国際関係の混乱回避。本人の体調確認は王宮医師が行うこと。
サフィラは書面を最後まで読み、破かずに机へ置いた。
「破りたいです」
「破ってもいいわ」
「いいえ。証拠にします」
涙を隠さず笑うその顔に、昨夜より強い光があった。
ミレイユはすぐに返書の手配を始めた。レーヴェ王国へ、指輪の術式と偽署名の疑い、本人の拒絶を照会する。王宮を通せば握り潰されるため、商会の国境便を使う。
「私の赤字な贈り物が、早速役に立ちますわ」
「危険では?」
サフィラが聞くと、ミレイユは扇を閉じた。
「危険です。でも、あなたを黙らせるほうがもっと高くつきます」
王女は少し驚き、それから丁寧に頭を下げた。
「ありがとう、ミレイユ様」
名前を呼ばれたミレイユが照れるのを、私は初めて見た。
* * *
返書は驚くほど早く届いた。国境の商隊に乗せ、夜通し馬を替えたのだという。封はレーヴェ外務卿のもの。サフィラの母国からの正式な返答だった。
そこには、友好指輪はロゼリア王宮の求めに応じて贈ったものであり、婚約意思の最終確認はロゼリア到着後に行う予定だった、と書かれていた。
曖昧な文面。責任を半分残し、半分逃がす文章。母国も彼女を政治の材料にしていたことが、きれいな礼文の隙間から見えた。
サフィラは長く黙っていた。
「母国も、私を差し出す気だったのですね」
「まだ確定ではない」
私が言うと、彼女は首を振った。
「慰めは嬉しいです。でも、今は事実を見ます」
彼女は返書を胸に当てた。
「私はレーヴェを嫌いになりたくありません。だから、国境交渉の議題にします。王女として抗議します。少女として、嫌だと言います」
その言葉は、前夜のお願いよりさらに難しい選択だった。攫ってほしいだけなら、逃げればいい。けれど国を背負いながら自分を捨てないためには、逃げたあとも立ち続けなければならない。
「サロンで扱いましょう」
私は言った。
「金、護衛、魔導、外交。全部が必要になる」
アイリスは頷き、ノエルは眠そうに資料を引き寄せ、ミレイユは帳簿を開く。セシリアはサフィラの手を握っていいか尋ね、サフィラは少し迷ってから頷いた。
その時、王宮からの使者が門へ到着した。外交保護令の執行時刻を告げるために。
返書を読んだあと、サフィラは一人で庭へ出たいと言った。護衛をつけるべきだとアイリスが言いかけ、私は首を振る。庭の入口から見守るだけにした。彼女には、国から届いた冷たい礼文を自分の中へ沈める時間が必要だった。
薔薇の枝の前で、サフィラは長く立っていた。レーヴェの青い花ではなく、ヴァルトローゼの赤い薔薇。異国の庭で祖国を思う彼女の背中は、とても細い。
しばらくして、ミレイユがそっと隣へ立った。
「王女殿下。商人の慰めでよろしければ」
「お願いします」
「曖昧な返書は、相手が迷っている証拠でもあります。完全に売る気なら、もっと綺麗に責任を押しつけますわ」
サフィラは少し笑った。
「慰めが商談分析なのですね」
「得意分野ですので」
その会話を聞きながら、私はサロンが形になり始めているのを感じた。誰か一人がすべてを癒やす場所ではない。それぞれの得意な言葉で、傷の周りに椅子を置く場所だ。
サフィラは返書を折り直し、私へ差し出した。
「これは証拠として預けます。でも、写しを一枚ください。祖国を嫌いにならないために、自分で何度も読みます」
「つらいわよ」
「はい。けれど、誰かが甘く直した文章だけを読んでいたら、また私は文書の中へ戻されます」
彼女はもう、痛い事実から目を逸らさない。私はその強さを尊重して、写しを作ると約束した。
レーヴェからの返書には、サフィラの母の署名はなかった。外務卿の名だけが整った文字で並んでいる。サフィラはそこを何度も見ていた。
「母は、知らないのでしょうか」
「分からないわ」
「知らないと思いたい私と、知っていてほしい私がいます。知らないなら孤独で、知っているなら裏切りです」
私は返す言葉を探した。どちらが軽い痛みか、他人が選べるはずもない。
セシリアがそっと言う。
「分からないままでも、今はサフィラ様の痛みを決めなくていいと思います」
サフィラはセシリアを見た。
「聖女候補様は、優しいですね」
「優しくしたい時に、優しくしています」
かつて我慢を優しさだと思っていた彼女が、今は自分の意思として優しさを差し出している。その成長が、サフィラにも届いたのだろう。
「では、私も今は祖国を嫌いにならないでおきます。決めるのは、母の返事を自分で聞いてからにします」
それは先延ばしではない。痛みを雑に処理しないための保留だった。サロンには、そういう保留も置ける場所が必要だ。
午後、サフィラは祖国へ出す抗議文の冒頭を何度も書き直した。王女として強すぎれば戦を招く。少女として柔らかすぎれば握り潰される。その間の細い道を、彼女はペン先で探している。
「難しいです」
「手伝う?」
「はい。でも、最後の一文は私が書きます」
ミレイユが文面の骨を整え、ノエルが指輪術式の所見を添え、セシリアが体調の記録を付けた。アイリスは護衛報告を短く書く。
最後にサフィラが書いた。私はレーヴェ王国の王女として、私自身の意思確認を求めます。
王女として、と、私自身。その二つの言葉が同じ行に並んだ時、彼女は少しだけ誇らしそうに笑った。
抗議文の写しを作る頃には、夕暮れになっていた。サフィラは窓の外の茜色を見て、祖国の国境の夕焼けも同じ色だと言った。
「同じ空なのに、遠いですね」
「手紙は届くわ」
「返事が怖いです」
「怖くても、待つ?」
「待ちます。私の国を、誰かの返書だけで諦めたくありません」
彼女はそう言って、抗議文の封蝋を自分で押した。青い国章の隣に、薔薇の小さな印も添える。逃亡ではなく、共同の照会として送るために。
封蝋が乾くまで、誰も急かさなかった。サフィラは自分の文が旅立つのを最後まで見守る。国境へ向かう手紙は、彼女の恐怖も誇りも一緒に運んでいく。返事がどうであれ、もう彼女抜きで彼女の未来は決めさせない。
サフィラは涙を拭かずに立ち上がった。泣いていないふりをするより、泣いたまま笑うほうを選んだのだ。
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