第54話 指輪にない署名
夜会の控室へサフィラを運ぶと、セシリアがすぐに祈りの布を巻いた。サフィラは礼を言おうとして、喉の痛みに顔をしかめる。
「話さなくていいわ」
私が言うと、彼女は首を振った。
「話します。黙れば、また文書にされます」
その覚悟に、私は頷いた。聖堂医師を呼び、外務局の記録官を同席させる。王宮は嫌がったが、夜会での移送発言が広まりすぎていた。密室に戻すには遅い。
ノエルは指輪の内側を薄い魔導光で照らした。青い石の裏に刻まれた線が浮かぶ。署名のように見えるが、名前ではない。
「これ、署名欄じゃない。術式の起動線」
ミレイユが昼間の写しを広げる。サフィラの婚約署名とされる線は、指輪の起動線と同じ形だった。
「つまり、署名が指輪にないのではなく」
私は息をのむ。
「指輪の線を、署名に見せかけた」
サフィラは青ざめた。
「私の名前では、なかったのですね」
それは安堵ではなく、別の痛みだった。自分の名を勝手に使われたと思っていたら、実際には名すら使われていない。王女という役割だけを器にして、本人を空白にされたのだ。
* * *
外務局長は偽造の責任をサフィラ本人へ押しつけようとした。友好の証として受け取った指輪を、王女が婚約の印だと誤認したのではないか。そういう筋書きだ。
サフィラは椅子の背を握り、立ち上がった。
「私は誤認していません。説明されていませんでした」
「王女殿下、外交上の混乱を避けるために」
「混乱を避けるために、私の名を空白にしないでください」
声はまだ痛そうだった。けれど、もう止まらない。
「私はレーヴェ王国を捨てません。ロゼリア王国を侮辱するつもりもありません。けれど、この指輪で王太子殿下の隣へ縛られることを望みません」
手首の薔薇が熱を帯びた。本人の拒絶は明確だ。私はサフィラへ手を差し出す。
「外してもいい?」
「はい。私が望みます」
破約の薔薇が薄紅に咲く。指輪へ触れた瞬間、異国式の線が抵抗した。切れない。翻訳が足りない。ノエルがすぐに横から術式を読み上げ、ミレイユが婚約写しの符丁を照合し、セシリアがサフィラの喉を守る祈りを重ねる。
一人では無理だった。けれど、サロンはもう私一人の手ではない。
青い指輪が音を立てて緩んだ。完全に壊れたわけではない。だが、皮膚へ食い込んでいた影が消える。
サフィラは外れた指輪を見つめ、涙を落とした。
「軽い、です」
「まだ終わっていないわ」
「はい。でも、今は軽い」
その小さな回復を、誰も奪えない。
控室の扉が強く叩かれる。王宮から外交保護令が出たと告げる声がした。
指輪を外したあとのサフィラの指には、細い赤い跡が残っていた。セシリアが薬を塗ろうとすると、サフィラは反射的に手を引きかけ、すぐに止める。
「ごめんなさい。触れられると、また何かを嵌められる気がして」
「謝らないでください」
セシリアは薬壺を開けたまま、サフィラの返事を待った。
「塗ってもいいですか」
サフィラは少し時間をかけて頷いた。
そのやり取りを、私は胸の奥にしまう。救出の直後に必要なのは、次の証拠だけではない。触れていいか、休んでいいか、泣いていいか。一つずつ本人へ返すことだ。
ノエルは外れた指輪を布の上へ置き、眉を寄せた。
「完全破壊ではない。外れただけ。原契約が別にある」
「どこに?」
「たぶん、教会か外務局。指輪は端末」
端末という言葉はこの世界の語ではないはずなのに、ノエルの口から出ると妙に納得してしまう。
ミレイユが控えを整理しながら言う。
「つまり、指輪を外しても婚約偽造の根は残る。だから王宮は外交保護令で身柄を押さえたいのですわね」
サフィラは薬を塗られた指を見つめた。
「私は、まだ自由ではないのですね」
「ええ」
私は嘘をつかなかった。
「でも、今夜あなたは、自分の指を取り戻した」
サフィラはゆっくり手を握り、開いた。赤い跡が痛々しい。けれどそこに青い石はない。
「では、次は私の名前を取り戻します」
その言葉は、指輪を外したことより強い破約の始まりに聞こえた。
控室の外では、外務局と教会代理人が言い争っていた。王宮は外交保護令を急ぎ、教会は聖約反応の記録を求めている。彼らにとってサフィラの指は、痛む身体ではなく管轄の問題らしい。
サフィラもその声を聞いていた。
「私は、どこに所属するのでしょう」
「あなた自身に」
私が答えると、彼女は困ったように笑った。
「それは、王女にはとても贅沢な所属です」
「贅沢でいいわ」
ミレイユが帳簿を閉じる。
「高価なものほど保険をかけます。サフィラ様の本人意思確認書を三通作りましょう。一通はサロン、一通は聖堂医師、一通は国境便」
「私の意思に保険を?」
「ええ。紛失されがちな品ですから」
その言い方にサフィラが初めて声を出して笑った。喉はまだ痛むのに、笑いは柔らかい。セシリアが慌てて水を差し出し、ノエルが笑うと痛みが増えるか観察しかけてアイリスに止められる。
重い証拠の真ん中で、彼女は少しだけ少女に戻った。私はそれを、指輪が外れたことと同じくらい大切な回復だと思った。
指輪が外れたあとの控室には、青い石が残した冷たさがしばらく漂っていた。サフィラは布の上の指輪を見ないようにして、けれど見ずにはいられない様子だった。
「捨てたいです」
「捨ててもいい」
「でも、証拠です」
「ええ」
彼女は深く息を吸い、指輪から目をそらした。
「では、今は捨てないことを選びます。いつか、証拠ではなくなった時に、自分で捨てます」
その約束は小さな未来だった。裁判のために痛みを保存するだけでは終わらない。いつか捨てられる日を、同時に予約する。私はその日まで、彼女の指がまた冷たい輪で塞がれないよう守ると決めた。
指輪の保管袋には、サフィラ自身が封をした。誰かに預けるのではなく、自分で証拠を管理するためだ。
「私が持っていても?」
「もちろん」
「逃げた王女が証拠を隠したと言われます」
「なら、写しと受領記録を作るわ」
ミレイユがすぐに紙を出し、ノエルが術式記録を添える。サフィラは封をした袋を胸元へ抱き、少しだけ笑った。
「私の痛みが、初めて私の管理下にあります」
その言い方は痛々しく、それでも確かな前進だった。
指輪の署名は偽物だと分かった。だからこそ、王宮は今度こそ力で彼女を囲うつもりだった。
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