第52話 偽りの国際婚約
翌朝、サフィラから届いた封筒には、押し花が一枚だけ入っていた。青い花弁の裏に、細い文字で書かれている。従者が王宮側へ渡りました。
私は封筒を閉じ、長卓へ置いた。セシリア、アイリス、ノエル、ミレイユ、ユーリアが集まる。まだサフィラの席はない。だが、彼女のための空白はすでに卓の一角にある。
「裏切りではなく、恐怖かもしれませんわ」
ミレイユが言った。
「レーヴェ側の従者も、王女殿下と同じく国を背負わされている可能性があります」
「だからといって、サフィラの身柄を売っていい理由にはならない」
アイリスの声は低い。剣で解決できる問題ではないことが、彼女を余計に苛立たせている。
ノエルは青い指輪の写しを眺めていた。
「これ、署名がない。指輪の内側にあるのは署名欄を代替する線。でも本人筆跡ではない。国際婚約の写しがあれば、比較できる」
「写しはどこに」
「外務局」
重い沈黙。王宮外務局から偽りの婚約写しを取るなど、普通なら不可能だ。
ミレイユが扇を開いた。
「普通なら、ですわ。外務局へ衣装代の請求を出している仕立屋が、ローゼン商会の取引先です」
* * *
その日の午後、私たちは仕立屋の奥室で国際婚約の写しを見た。もちろん原本ではない。衣装合わせに必要だという名目で回ってきた、日付と署名欄だけの抜粋だ。
サフィラの署名は、美しすぎた。迷いも筆圧の癖もない。王女が公式文書に書く時の署名を真似ているが、均一すぎる。
「彼女の押し花の文字と違うわ」
セシリアがそっと言う。
「ええ。押し花の文字は、もっと息をしています」
私は写しを見つめた。国際婚約が偽造なら、ロゼリアとレーヴェの問題になる。軽率に暴けば、サフィラを守るどころか国境へ火をつける。
「静かな証拠集めが必要ね」
「派手に殴れないのか」
アイリスが悔しそうに言う。
「今は」
私は答えた。
「でも、殴るべき時に空振りしないための準備よ」
ノエルは写しの署名欄を薄紙へ写し、指輪の線と重ねた。二つはぴたりと同じ角度で曲がっている。署名ではなく、術式の型だ。
「王女の筆跡じゃない。指輪に刻むための線を、署名に見せている」
ミレイユの顔が険しくなる。
「誰かが、サフィラ様の名前を器にして婚約を作った」
私は薄紙を畳んだ。
「明日の夜会で身柄移送が出るなら、その前に本人の言葉を残す」
仕立屋の窓の外で、例の従者がこちらを見ていた。今度は逃げない。彼はまっすぐ王宮の方向へ歩き出した。
仕立屋の奥室では、針子たちが表でわざと大きな声を出していた。新作の袖丈、王女の夜会衣装、悪役令嬢の噂。どれも監視の耳を散らすための芝居だ。ミレイユが一晩で手配したという。
「あなた、商会を出たばかりなのに人脈が減っていないのね」
「信用は金庫に閉じ込められませんもの。あと、仕立屋には昔から多めに払っておりました」
「それは賄賂?」
「信頼構築ですわ」
ミレイユは悪びれずに言う。私は思わず笑い、すぐに写しへ視線を戻した。笑っていられる時間は短い。
ノエルは薄紙を何枚も重ね、署名線の角度を測っていた。眠そうな目なのに、指先は一切ぶれない。
「サフィラ本人の押し花文字は、始点で少し圧が深い。公式署名の癖もたぶん同じ。でもこの婚約写しは圧が均一。筆跡じゃなく刻印」
「証明できる?」
「比較資料がもっと必要。できれば本人の正式署名」
サフィラは少し迷い、自分の携帯聖書を出した。表紙裏に、幼い字で名前が書かれている。
「十歳の時のものです。国境視察へ初めて行く前、母が持たせてくれました」
その字は整っていない。けれど確かに息をしている。私は胸が詰まった。偽署名を暴くために、彼女は母との記憶まで差し出している。
「無理に使わなくていい」
「使います。私の名前が、私のものだった証拠です」
ノエルは珍しく真剣な声で言った。
「大事に扱う」
サフィラは頷く。その横顔には、王女ではなく、名前を取り戻そうとする少女の決意があった。
サフィラの幼い署名を見た時、セシリアが小さく息をのんだ。
「可愛い字ですね」
サフィラは驚いた顔をする。
「可愛い、ですか」
「はい。頑張って書いた字です」
その何気ない言葉に、サフィラの目が揺れた。王女の署名は美しくあるべきだと褒められてきた人にとって、幼い字を可愛いと言われることは、思いがけない赦しだったのかもしれない。
「母は、曲がっていると笑いました」
「優しく?」
「ええ。優しく。私は怒りましたけれど」
彼女は聖書の表紙を撫でた。政治の証拠にするには柔らかすぎる記憶だ。けれど、本人の筆跡とは生きてきた時間そのものでもある。偽署名は、その時間を持たない。
ノエルが三つの線を重ねる。幼い署名、押し花の文字、婚約写し。違いは一目で分かるほどではない。だからこそ専門家が必要になる。
「裁判で使うなら、もっと資料がいる」
「集めます」
サフィラは即答した。母の思い出を証拠に変える痛みを引き受ける声だった。
仕立屋を出る時、針子の一人がサフィラへ小さなリボンを渡した。青銀ではなく、淡い薔薇色のリボン。
「夜会衣装の余りです。お守りに」
サフィラは戸惑いながら受け取った。
「私は、代金を」
「いりません。王女様のためではなく、痛そうな女の子のためです」
その言葉に、サフィラは返事を失った。身分ではなく痛みに反応されることに、慣れていないのだ。
ミレイユが横で目を細める。
「良い仕入れ先でしょう」
「ええ」
私はリボンを見つめた。証拠ではない。けれど、明日の夜会でサフィラが自分を失わないための小さな目印になる。
その夜、サフィラは自分の正式署名を何度も書いた。幼い字、今の字、王女としての字。三種類の筆跡が紙の上に並ぶ。
「どれも私です」
彼女は言った。
「幼い私も、王女の私も、今ここで震えている私も」
偽りの婚約写しには、その震えがない。だから偽物だと分かる。証拠とは冷たいものだと思っていたけれど、本当は生きている人の揺れを守るためにあるのかもしれない。
サフィラはリボンを手首ではなく、聖書の表紙へ結んだ。痛みを飾るのではなく、名前の証拠を見失わないために。明日の夜会へ持っていくと決めたその手は、まだ震えていたが、指輪の重さだけに支配されてはいなかった。
偽りの婚約は、こちらが気づいたことまで相手へ伝わった。
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