第51話 王女の密会
王太子の声が近づくほど、サフィラの指先は冷たくなった。袖を掴む力は強い。けれど彼女は、私の背後に隠れようとはしなかった。
「私が出ます」
「無理をしないで」
「無理ではありません。密会をした王女として、言い訳を選びます」
彼女は深く息を吸い、噴水の影から一歩出た。王太子ユリウスは外務官を連れ、青い夜会服で立っている。私を見た瞬間、眉がわずかに動いた。
「また君か、レティシア」
「ご機嫌よう、殿下。夜の庭はお静かでよろしいですね」
「王女殿下との私的な会談は、外交上の問題になる」
サフィラが先に答えた。
「私が招きました」
「王女、あなたはロゼリアの保護下にある。危険人物と二人きりになるなど」
「二人きりではありません。水音も、月も、あなたの外務官も聞いています」
静かな反撃に、外務官が目を伏せた。サフィラは王女だ。守られるだけの少女ではない。私はその横顔を見て、攫うという言葉の重さを改めて知る。
ユリウスは表情を整えた。
「明日の青銀夜会で、あなたの保護について正式に発表する」
「私の保護ですか。それとも婚約ですか」
「国の安定のためだ」
サフィラの指輪が青く光った。彼女は痛みに耐え、唇を噛む。私は手を伸ばしかけ、止めた。ここで私が言葉を奪ってはいけない。
「国の安定に、私の沈黙を含めないでください」
彼女は言った。声は震えている。それでも、夜の庭に届いた。
* * *
王太子が去ったあと、サフィラはその場にしゃがみ込んだ。王女の姿勢を保っていた糸が切れたようだった。私は外套を肩へ掛ける。
「よく言ったわ」
「怖かったです」
「ええ」
「怖いと認めると、王女ではなくなる気がしていました」
「王女でも、怖いものは怖いわ」
彼女は外套を握り、やっと泣いた。声を殺して泣く癖がついている。私はそれを急かさず待った。
ミレイユが見張りの隙をついて戻ってくる。手には小さな写し紙。
「外務官の袖から落ちました。明日の夜会で、サフィラ様の身柄を王宮へ移す文案です」
「婚約発表ではなく移送?」
「表題は保護。中身は事実上の拘束ですわ」
サフィラは涙を拭いた。
「なら、明日までに私の言葉を用意しなければ」
「言葉?」
「私は攫われたのではなく、自分で歩いたと」
その強さに、私は頷いた。密会は秘密で終わらせない。明日の夜会で、彼女の声へ変える。
回廊の出口で、レーヴェ側の従者がこちらを見ていた。サフィラは気づき、表情を硬くする。
「あの者は、幼い頃から私についていた従者です」
従者は一礼した。だが、その足は王太子が去った方向へ向かう。
王太子と外務官が去ったあと、回廊にはレーヴェ側の従者が残した香水の匂いが漂っていた。サフィラはそれに気づき、顔を曇らせる。
「あの香りは、私の国の冬花です。母が好きでした」
「従者も、あなたを裏切りたくて動いたとは限らないわ」
「分かっています。分かっているから、つらいのです。私を守るためだと言いながら、私の言葉を先に王宮へ渡す。皆、そうやって優しく檻を作ります」
彼女の声には怒りより疲れがあった。私はセシリアに渡された小さな祈り布を差し出す。
「これは?」
「喉が痛む時に当てる布。セシリアが作ったの」
「聖女候補様が、私に?」
「ええ。会ったばかりの王女でも、痛いなら使ってほしいと」
サフィラは布を受け取り、しばらく見つめた。王女として贈答品を受け取る時の礼ではなく、少女が初めて見知らぬ優しさに触れる顔だった。
「お返しを用意しなければ」
「いらないと言うと思うわ」
「なら、困ります」
「困ったまま受け取ってもいいのよ」
サフィラは布を喉へ当てた。痛みが消えたわけではない。それでも、彼女の肩が少し下りる。重い密会の後、誰かが作った布一枚で息ができるようになる。その小さな変化こそ、王宮が最も理解できないものだ。
「レティシア様」
「何?」
「明日、私がまた怖くなったら、布を見ます。あなたではなく、私が歩くために」
私は頷いた。攫う相手に寄りかからせるのではなく、歩く支えを増やす。それが今夜の約束になった。
王太子との応酬を終えたサフィラは、帰り道で何度も振り返った。従者の背を探しているのだと分かる。裏切られた相手でも、幼い頃からそばにいた人を簡単には切り捨てられない。
「追わせますか」
ユーリアが尋ねた。
「いいえ」
サフィラは布を喉へ当てたまま答える。
「今追えば、私は彼を罰する王女になります。まずは、私が何を望んだかを書きます」
「優しすぎるわ」
私が言うと、彼女は苦笑した。
「優しいのではありません。彼に私の選択を知られないまま敵にしたくないだけです」
その判断に、私は胸を突かれた。救出は相手を連れて逃げるだけでは終わらない。残された人、裏切った人、怖くて従った人との関係まで、あとから波のように押し寄せる。サフィラはもう、その波を見ていた。
王都邸へ戻る馬車の中、彼女は自分の手で短い文を書いた。私は今夜、自分の意思でレティシア様と会いました。王宮保護を望むとはまだ答えていません。たった二文が、明日の夜会で彼女を支える杭になる。
王都邸へ戻ると、アイリスが門前で待っていた。夜会服ではなく護衛の上着を着ている。
「遅い」
「ごめんなさい」
私が謝ると、アイリスは私ではなくサフィラを見た。
「無事でよかった」
サフィラは意外そうに瞬き、それから丁寧に礼を返した。
「あなたは、私を責めないのですね」
「責める理由がない。助けを求めるのに、許可はいらない」
そのまっすぐさに、サフィラの目がまた潤む。王宮では外交上の許可ばかり求められてきた彼女にとって、その言葉は剣より強い護衛だった。
部屋に戻ったサフィラには、客間ではなく一時避難用の小部屋を用意した。窓の鍵が内側にあることを、彼女自身に確認してもらうためだ。
「本当に、内側から掛けられます」
「試して」
彼女は鍵を掛け、開けた。それだけの動作を三度繰り返す。誰も笑わなかった。身体が安心を覚えるまで、同じ確認を何度でもしていい。
最後にサフィラは扉の鍵も確かめ、小さく息を吐いた。
「眠れそうです。少しだけ」
その少しだけを守るため、私たちは廊下の灯を落とさずにおいた。
小部屋の前で、アイリスが無言で夜番を申し出た。サフィラは扉越しに礼を言い、初めて少し眠った。
サフィラの密会は、もう裏切られていた。
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