第50話 攫ってください
噴水回廊は、王宮の中で一番音を隠しやすい場所だった。水音が会話をほどき、白い石柱が視線を遮る。だが隠れるための場所ほど、監視も多い。
ユーリアは回廊の入口で足を止めた。
「二人、外務局。三人、レーヴェ側。もう一人は王宮の影です」
「多いわね」
「王女殿下が本当に逃げたがっていると、向こうも知っているのでしょう」
私は噴水の影へ進んだ。サフィラはそこにいた。昼間の青銀の髪をほどき、薄い外套で夜の冷えをしのいでいる。王女らしい装飾が減った分、年相応の疲れが見えた。
「来てくださったのですね」
「あなたが呼んだのでしょう」
「呼びました。でも、王女の呼び出しは命令に聞こえます」
サフィラは左手の指輪を押さえた。
「だから、今からお願いをします。レティシア様。私を攫ってください」
水音が一瞬遠くなる。あまりにまっすぐな言葉だった。
「攫うという言葉の意味を、分かっている?」
「分かっています。あなたは略奪令嬢と呼ばれ、私は外交を乱した王女になります」
「それでも?」
「ただし、私の国ごと捨てる攫い方は嫌です」
彼女は震える声で続けた。
「私はレーヴェの王女です。民を戦に巻き込みたくない。母国を憎みたいわけでもない。でも、ロゼリア王太子の隣へ、文書の一部として差し出されるのは嫌です」
そこには、救われたい少女と国を背負う王女が同時にいた。片方だけを抱き上げれば、もう片方を落としてしまう。
「なら、退路を作るわ。あなたの国を捨てず、あなたの拒絶を隠さず、王宮が攫われたと騒いでも本人の選択が残る形で」
サフィラの目に涙が浮かんだ。
「そんな都合のいい道がありますか」
「今はない。作るの」
* * *
私たちは噴水の縁へ並んだ。ミレイユが帳簿の写しを出し、サフィラが指輪の内側を見せる。レーヴェ式の誓約印に、ロゼリアの星冠線が重ねられていた。二つの国の術式を混ぜた、ひどく雑で、ひどく悪質な印だ。
「署名した覚えは?」
「ありません。母国の外務卿から、友好の指輪だと渡されました。外してはいけないとだけ」
「外そうとしたら」
「喉が焼けるように痛みます」
セシリアの拒絶を封じた聖約と似ている。私は手首の傷を押さえた。破約できるかはまだ分からない。本人の拒絶はある。だが国際婚約として扱われるなら、政治の鎖が何重にも絡む。
サフィラは私の手首へ視線を落とした。
「痛むのですね。私のせいで」
「あなたのせいではないわ」
「では、誰のせいにしますか」
私は答えた。
「誰か一人のせいにして終わらせない。書類、金、指輪、証言。全部そろえて壊す」
サフィラは小さく笑った。涙をこぼしながら、王女の顔で。
「悪役令嬢は、思ったより面倒な攫い方をなさるのですね」
「雑に攫うと、あなたが傷つくもの」
その時、回廊の奥で足音が止まった。外務官ではない。王太子ユリウスの声が、水音の向こうから届く。
「サフィラ王女。そこにいるのか」
サフィラが攫ってほしいと言ったあと、私はすぐには頷かなかった。彼女の願いは切実だ。だからこそ、こちらの都合で美しい略奪劇にしてはいけない。
「確認させて。あなたは王宮から離れたい。けれどレーヴェ王国の王女であることは捨てたくない。ロゼリアとの戦も避けたい。私の屋敷へ来るなら、あなた自身の言葉で来たと記録したい。合っている?」
サフィラは一つずつ頷いた。最後の頷きだけ、少し遅れた。
「記録が残れば、母国にも知られます」
「知られない救出は、あとで誘拐に変えられるわ」
「分かっています。分かっていて、怖いのです」
彼女は噴水の縁へ腰を下ろした。王女の作法から外れた座り方だった。膝の上で組んだ指が、青い指輪に触れないよう不自然に曲がっている。
「私は、国のためなら我慢できると思っていました。けれど指輪を渡された夜、母国の外務卿が私を見ずに、これで国境が静かになると言いました。その時、私の中で何かが冷えました」
「国境は大事よ」
「はい。民も兵も大事です。でも、私が冷えることを誰も数えなかった」
その言葉に、ミレイユが息をのむ。商会の帳簿に心の冷えが載らないように、外交文書にも少女の冷えは載らない。
私はサフィラの前に膝をついた。視線を合わせるために。
「攫うなら、あなたが冷えたことも記録する。政治の言葉へ薄めずに」
「そんな記録、外交官は嫌がります」
「嫌がられるくらいが、ちょうどいいわ」
サフィラは涙をこぼしながら笑った。王女の微笑みではなく、初めて夜の冷えに震える少女の笑みだった。
足音が近づく間、サフィラは袖を離さなかった。私は彼女へ、逃げるなら今だと目で問う。彼女は首を横に振る。
「逃げません。隠れてお願いしたままでは、あとで夢だったことにされます」
「なら、ここからは密会ではなく証言になる」
「はい」
彼女は指輪の痛みに耐えながら立ち上がった。その背筋に、私は王族の教育の残酷さと美しさを同時に見た。泣いても背を曲げないよう仕込まれている。その訓練を、今度は自分の意思を守るために使おうとしている。
ミレイユが小声で言った。
「王女殿下は、商談相手として相当手強いですわ」
「頼もしいと言ってあげて」
「もちろん。頼もしく、そして少し危なっかしい」
その評価にサフィラが微笑む。緊張で張り詰めた夜の中に、かすかな温度が戻った。攫ってくださいという願いは、悲鳴だけでは終わらない。彼女自身が、攫われた後の立ち方まで考え始めている。
王太子の声が届く前に、サフィラはもう一つだけ教えてくれた。
「私の部屋の窓には、外から鍵が掛かります」
「内側からではなく?」
「ええ。王女の安全のため、と」
安全という言葉が、ここでも檻の別名になる。私は怒りを飲み込んだ。怒りで彼女を怖がらせてはいけない。
「今夜は戻れる?」
「戻ります。戻らなければ、明日の夜会前に母国へ緊急連絡が行きます」
彼女は自分の檻の仕組みを正確に把握している。だからこそ、攫ってほしいという願いは衝動ではない。逃げ道を計算し尽くした末の、最後の選択だった。
王太子の足音が水音に混じる直前、私はサフィラへ最後の確認をした。
「今なら、ただの密会で終われる」
「終わらせません」
「明日から、あなたの名前は騒がれる」
「名前が騒がれるなら、名前を取り戻す機会もできます」
その答えに、私は笑ってしまった。王女は思ったより強かだ。守るべき少女であり、同時に交渉相手でもある。その両方を忘れないことが、彼女を傷つけない攫い方の第一歩だった。
彼女は息をのみ、私の袖を掴んだ。お願いではなく、選択の確認として。
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