第49話 青い指輪の王女
ミレイユが持ち込んだ写しの中で、青い指輪の購入記録だけが妙に浮いていた。宝石商の名は王都のもの。支払い元は王宮外務局。届け先は、隣国レーヴェ王国の使節宿舎。
サフィラ・レーヴェ。原作では王太子の国際婚約ルートで、透明な声のまま笑う王女だった。けれどゲームの画面に、彼女の指輪の内側までは映らない。
「この石、レーヴェの国石ですわ。でも台座はロゼリア式ではありません」
ミレイユが帳簿を指で叩く。商会令嬢としての顔が戻っているが、昨夜泣いた目元はまだ少し赤い。
「ロゼリア式でないなら、こちらの聖約ではない?」
ノエルが眠そうに首を傾けた。
「異国式でも、星冠印と似た構造なら干渉できる。たぶん、翻訳が必要」
翻訳。ノエルが以前、破約の薔薇を切断ではなく翻訳だと言った時の響きが蘇る。本人の拒絶を、契約が読める形へ変える力。サフィラの指輪にも、それが必要になるかもしれない。
王宮からは、今夜の外交茶会への招待状が届いていた。宛名は私。差出人は外務局。危険人物と呼ぶ相手を茶会へ招くなら、見せたい何かがあるのだろう。
招待状の余白には、香水のような青い匂いが残っていた。
花ではない。
冷たい水と金属を混ぜたような、国境の匂いだ。
サフィラが自分で触れたものか、誰かが王女らしさとしてまとわせたものかは分からない。
ただ、その匂いは紙の上でも少し苦しかった。
私は招待状を閉じ、青い指輪の購入記録と並べた。
今夜会うのは王女だけではない。
王女という形に押し込められた少女の、息の跡でもある。
* * *
外交茶会は王宮の白い温室で開かれた。初夏の夜なのに、硝子越しの花々は作り物めいて白い。王族、外務官、レーヴェ側従者。皆が笑い、誰も本音を口にしない。
サフィラ王女は、白い椅子に座っていた。青銀の髪を高く結い、喉元には薄い青の宝石。手袋の上からでも、左手薬指の指輪だけが冷たく光って見える。
彼女は私に気づくと、王女らしい完璧な礼をした。
「お会いできて光栄です、レティシア様。噂より、お静かな方ですのね」
「噂は売り手によって味が変わりますから」
ミレイユが横で小さく咳をした。笑いをこらえたのだ。サフィラの瞳が一瞬だけ和らぐ。
「では、私の噂も味見なさいますか」
「必要なら」
サフィラは茶杯を持ち上げた。手袋の端から、青い指輪の内側に刻まれた線が見えた。星冠印ではない。だが、祈りの輪を逆さにしたような形が、皮膚へ影を落としている。
「痛むの?」
思わず低く聞くと、彼女の笑みがほんの少し止まった。
「王女は痛みを外交文書に書きません」
「少女なら?」
サフィラの青い目が私を射抜く。
「少女なら、助けてと書くかもしれません」
外務官がこちらへ近づく。会話はそこで切られた。だがサフィラは茶托の下へ小さな花弁を残していった。青い花弁に、針で刻んだような印がある。
ミレイユがそれを拾い、顔を強張らせた。
「密会の合図です。商会の古い符丁で、今夜、噴水回廊へ」
茶会のあいだ、サフィラは一度も助けを求める顔をしなかった。外務官が祖国の港の話をすれば港の税率で返し、王太子が友好を語れば国境の冬道の危険を挙げる。王女としての答えは、どれも完璧だった。完璧すぎて、少女の息が入る隙間がなかった。
私はその完璧さが怖かった。セシリアは我慢を優しさだと思い込んでいた。アイリスは守る側が守られたいと言ってはいけないと思っていた。ノエルは感情を研究の邪魔だと思っていた。サフィラは、王女の恋は外交文書の一部だと教え込まれている。彼女の笑顔は礼儀ではなく、国境線だった。
ミレイユは茶菓子を一つ取り、半分だけ割って皿へ戻した。商会の符丁では、商談をここで止めるという意味らしい。サフィラはそれを見て、わずかに瞬きをした。二人のあいだで、言葉ではない会話が通る。商人の娘と王女。違う場所で値札を貼られてきた者同士が、一瞬だけ同じ痛みを見た。
「王女殿下は、王都の茶会をお気に召しましたか」
外務官が尋ねた。サフィラは微笑む。
「ええ。砂糖が多く、沈黙が少ないところが」
「それはお褒めの言葉で?」
「もちろんです。沈黙が多すぎる茶会は、後で文書が増えますから」
外務官が乾いた笑いを返す。サフィラの言葉は柔らかいが、そこには警戒がある。彼女は自分を守る剣を持たない代わりに、外交の言い回しを刃にしているのだ。
私は青い花弁を掌で隠しながら、その刃がいつ折れるかを考えていた。折れる前に受け止めたい。けれど受け止めるには、まず彼女がどこへ倒れたいのかを聞かなければならない。
茶会の終わり際、サフィラは私に小さな問いを投げた。
「レティシア様は、悪名を着ていて苦しくありませんか」
「苦しいわ」
「では、なぜ脱がないのです」
「脱いだら、誰かが私の代わりに着せられるから」
サフィラは黙った。悪名は布ではない。けれど社会は、誰か一人に汚れた名を着せると安心する。セシリアを聖女、アイリスを飾りの騎士、ノエルを天才人形、ミレイユを商会の娘と呼んだように。サフィラもまた、友好の王女という名の衣を着せられている。
「私も、脱げますか」
「脱ぐのではなく、縫い直すのかもしれない。王女という名を、あなたの体に合う形へ」
彼女は青い指輪を見下ろした。
「では、今夜は採寸ですね」
その冗談は王女らしく整っていたが、目は少しだけ濡れていた。私は茶托の下の花弁を握り、必ず噴水回廊へ行くと決めた。
温室を出る直前、サフィラは外務官に呼び止められた。明日の夜会衣装の確認だという。彼女は一瞬だけ私を見る。助けを求める視線ではない。先ほどの会話が本当に届いたかを確かめる視線だった。
私は小さく頷いた。サフィラは外務官へ向き直り、王女の声で答える。
「衣装は確認します。ただし、指輪を隠す袖にはしないでください」
外務官の顔色が変わった。彼女はもう、痛みを完全には隠さないと決めたのだ。
その小さな反抗が、温室の白い花より鮮やかに見えた。私は青い花弁を失くさないよう手帳へ挟み、夜の噴水回廊までの時間を数えた。
帰りの馬車で、ミレイユは青い花弁をもう一度確認した。針で刻まれた符丁は、助けを求める形にしては綺麗すぎる。
「綺麗に助けを求める人ほど、限界が近いですわ」
「経験談?」
「ええ。笑顔の値段は、最後に一番高くつきます」
私は窓の外の王宮を見た。白い塔の明かりは美しい。だがその中で、サフィラは痛む指輪をはめたまま眠るのだ。今夜まで待つ時間が、ひどく長く感じられた。
その花弁は、ただの合図ではない。王女が自分で置いた最初の証拠だった。
私はサフィラの背を見た。彼女はもうこちらを向かない。王女として座り、少女として逃げ道を置いた。
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