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第48話 赤字な贈り物

 マティアスが差し出した聖約書は、婚約書というより差し押さえ令に近かった。ミレイユの身柄、商会の持ち分、王宮納入権、裏帳簿の管理権。文字は丁寧で、余白は少ない。逃げ道を文字で埋める男らしい紙だ。


 金庫室の冷気の中で、ミレイユは裏帳簿を抱えたまま立っている。父を告発する痛みと、自分を守る必要が同じ腕の中でせめぎ合っていた。


「署名すれば、この件は穏便に済む」


 マティアスは穏やかに言った。


「君の父も守られる。商会も守られる。ヴァルトローゼ嬢も、これ以上の醜聞を重ねずに済む」


「私だけが守られませんわね」


「君は宰相家が守る」


 ミレイユは小さく息を吐いた。


「檻の鍵を持つ方は、皆そう仰います」


 星冠印が淡く光る。未署名でも、周囲の承認印が本人へ圧をかけている。私は手首の痛みに気づいた。破約の薔薇が、契約の気配を嗅ぎつけている。


「ミレイユ」


 私は名前を呼んだ。


「あなたは、この聖約を望む?」


 彼女は私を見た。赤茶の髪が頬に落ち、いつもの華やかさが少し崩れている。その崩れた顔が、いままでで一番綺麗だと思った。


「望みません」


「家を失っても?」


「失うのではありません。父が閉めた扉の外へ、自分で出ます」


「商会の名を奪われても?」


「私の名前は残ります」


 最後の言葉で、破約の薔薇が開いた。手首の傷から熱が走り、金庫室に薄紅の花弁が散る。聖約書の星冠印へ触れると、紙の上に重ねられた承認印が一つずつ剥がれるように滲んだ。


 マティアスが初めて声を硬くした。


「成立前の聖約に干渉するなど」


「本人の拒絶を、成立済みとして扱おうとしたのはあなたよ」


 聖約書の中央に、ミレイユの署名欄が浮き上がる。空白だった場所へ、彼女は自分のペンで一文を書いた。私は望まない。


 紙が裂けた。音は小さい。けれど、金庫室にいた全員が息を止めるほど鋭かった。


* * *


 その後は慌ただしかった。マティアスは聖約書の破損を違法と責め、ローゼン会長は裏帳簿の持ち出しを盗難と叫び、書記は記録官を呼びに走った。


 ミレイユは逃げなかった。裏帳簿の原本は父へ返し、必要な写しだけを私の鞄へ入れた。父を今すぐ断罪しない。けれど、証拠を消させもしない。彼女らしい、痛みと算段の両方を残す選択だった。


 店を出た時には夜になっていた。香料街の灯は金色で、冬でもないのに指先が冷たい。ミレイユは外套の前を押さえ、深く息を吸った。


「勘当、でしょうね」


「屋敷には客間があるわ」


「また女の子を増やすのですか、悪役令嬢様」


 からかう声に戻っている。私は返す言葉を探し、結局、正直に言った。


「増やすのではないわ。来たい人の席を空けているだけ」


 ミレイユは目を丸くし、それから顔を赤らめた。年上らしい余裕が剥がれる瞬間は、思ったより破壊力がある。


「そういう口説き文句は、請求書に書いてくださいませ」


「請求されるの?」


「いいえ。贈り物です」


 彼女は小さな革袋を差し出した。中には銀の鍵と、香料倉庫の小口契約書、それからサロン運営のために使える資金一覧が入っている。彼女が自分で動かせる財産のほとんどだ。


「赤字でしょう」


「大赤字ですわ」


「返すわ」


「返さないで。これは買収ではありません。私が好きな場所へ、最初に置く看板代です」


 好きな場所。その言い方に、胸が詰まった。


 私は革袋を受け取り、同時に彼女の手を包んだ。


「ありがとう。ミレイユ」


「名前を呼ぶたびにお礼を言われたら、私、黒字になってしまいます」


 彼女は笑いながら、少し泣いた。重い展開のあとに、ようやく泣ける場所ができたのだと思う。私はその涙を急がせず、馬車の影でしばらく待った。


 王都邸へ戻ると、セシリアが温かい祈りを、アイリスが警戒を、ノエルが眠そうな観察記録を用意していた。ミレイユはそれぞれに商人らしい挨拶を返し、最後に私へ囁く。


「帳簿に、気になる支払いがありました。レーヴェ王国の王女殿下に関するものです」


 私は鞄の写しを取り出した。隣国王女サフィラ。その名の横に、青い指輪の購入記録がある。


 王都邸へ入る前、ミレイユは門の前で立ち止まった。明かりの漏れる窓の向こうには、すでにセシリアたちの気配がある。救われた者たちの家。そう呼ぶにはまだ危うく、けれど彼女にとっては初めて自分で選ぶ扉だった。


「入るのが怖い?」


「少し。皆さん、私をどう見るでしょう」


「商会令嬢として」


「それだけ?」


「ミレイユとして」


 彼女は困ったように笑った。


「それが一番、値のつけ方が分かりませんわ」


 扉が開き、セシリアが真っ先に出迎えた。温かいショールを抱えている。


「お疲れでしょう。まず、座ってください」


 アイリスは廊下の奥で周囲を警戒しながら、ミレイユの荷物を自然に受け取った。ノエルは眠そうな目で革袋を見て、資金移動の魔導記録を取るべきだと呟く。歓迎の仕方がばらばらで、だからこそ作り物ではなかった。


 ミレイユはショールを受け取り、目を伏せた。


「私、対価を用意してきましたのに」


 セシリアが首を傾げる。


「温かいお茶への対価ですか?」


「……いいえ」


 ミレイユは笑い、涙を拭いた。


「困りましたわ。ここでは値段を聞く前に、席が出てくる」


 私は彼女を長卓へ案内した。まだ正式なサロンではない。椅子の数も足りない。けれど一つ席を増やすたびに、王家が所有物として数えた少女たちは、名前を持って座り直す。


 ミレイユが席に着いた時、サフィラの支払い記録が卓の中央で青く冷えて見えた。次の椅子は、国境の影を連れてくる。


 ミレイユの部屋は、その夜すぐには決まらなかった。客間を案内しようとすると、彼女は長卓に置かれた帳簿のそばを離れたがらなかった。


「眠る場所より、明日の支払いを先に見たいのです」


「休むことも仕事よ」


「では、休むための予算を組みます」


 ノエルが眠そうに、睡眠不足は計算精度を下げると呟いた。アイリスは警備費を削るなと真顔で言い、セシリアは温かい毛布を二枚持ってくる。ばらばらの世話に、ミレイユはついに笑った。


「なるほど。ここは赤字になるわけですわ」


「なぜ?」


「皆さん、惜しみなく差し出しすぎますもの」


 その赤字なら悪くない。私はそう思いながら、サフィラ王女の青い指輪の記録へ目を落とした。


 ミレイユ救出の余韻は、まだ温かい。けれど次の鎖は、もう国境の向こうから伸びていた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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