第47話 笑顔の下の帳簿
金庫の鉄扉は、店の奥にある葡萄酒棚の裏に隠されていた。香料商らしい華やかな表の顔からは想像できないほど、そこだけ空気が冷たい。
封鎖印は三枚。ローゼン商会、宰相家、王宮会計局。ミレイユはそれを見て、唇を歪めた。
「私の家の金庫に、知らない客が多すぎますわ」
「開けられる?」
「開けます。開けられるかどうかではなく、開ける必要がありますもの」
封鎖印を破れば、商会規則違反になる。けれど中の帳簿が消されれば、王宮と宰相家が噂を買った証拠も、ミレイユを縁談で縛った金の流れも失われる。
私は聖約ではない封印に破約の薔薇を使えない。便利な鍵ではないのだ。本人の本心を切り開く力であって、都合の悪い扉を壊す力ではない。
ミレイユは腰の小さな鍵束を外した。飾りのように見える銀鎖に、細い鍵が五本。
「母の遺品です。父は宝飾品だと思っています」
「鍵なのね」
「商人の女は、宝石より鍵を持つべきですわ」
彼女は一枚目の封鎖印を慎重に外した。破るのではない。端の糊を温め、紙を傷めず剥がす。ノエルが見たら魔導式のようだと言いそうな手つきだった。
二枚目で、外から足音が近づいた。ユーリアが廊下で誰かを止める低い声がする。時間がない。
「ミレイユ」
呼び捨てにしたことに、自分で驚いた。彼女も驚いたように目を上げる。
「焦らなくていい。証拠よりあなたの指が大事よ」
「そういうことを、この距離で仰らないでくださいませ」
「え?」
「手が震えます」
本当に少し震えた指先を、彼女は笑って隠した。けれど、今度の笑顔は嘘ではない。
* * *
金庫が開くと、湿った紙の匂いがした。中には表帳簿、未払い債権、そして赤い紐で縛られた薄い冊子がある。ミレイユは迷わずそれを取った。
「裏帳簿です。父は私が知らないと思っていました」
「知っていたの?」
「ええ。笑顔でお茶を淹れながら、ずっと聞いておりましたもの」
冊子の中には、噂の買い付け、新聞職人への追加支払い、教会代理人への献金、そしてマティアスの名前が何度も出てきた。直接の署名はない。だが符丁と金額の癖が揃っている。
さらに後ろのページで、ミレイユの指が止まる。
「隣国王女の滞在費」
そこには、レーヴェ王国王女サフィラの護衛宿舎費、夜会衣装費、通訳謝礼が載っていた。支払い元は王宮外務局、仲介はローゼン商会、調整欄に宰相家。
「サフィラ王女は、王宮の賓客ではないの?」
「賓客なら費用は外務局が表で処理します。商会を挟むのは、見せたくない条件がある時ですわ」
胸の奥に冷たいものが落ちた。原作の次の攻略対象は隣国王女だった。王太子の国際婚約ルート。だが、ここにも聖約と金の匂いがある。
外で声が荒くなる。ユーリアだけでは長く止められない。
ミレイユは裏帳簿を閉じ、懐へ入れようとして止まった。
「持ち出せば、父を告発することになります」
「しなくても、あなたは売られる」
「分かっています。でも、父なのです」
その一言が、帳簿より重かった。私は彼女の横に膝をつく。
「全部を今決めなくていい。持ち出すかどうかも、告発するかどうかも、あなたが選ぶことよ」
「選ぶ時間をいただけますの?」
「ええ。ただ、写しは取る」
ミレイユは泣きそうな顔で笑った。
「優しいのに抜け目がありませんわね」
「あなたの影響かも」
彼女は赤い紐をほどき、必要なページを私へ渡した。手際よく写しを取る。証拠は全部ではない。それでも王宮、宰相家、商会の線が一本につながった。
廊下の扉が開く。マティアスの声がした。
「そこまでだ」
ミレイユは裏帳簿を胸に抱き、立ち上がる。笑顔は戻っていた。けれどもう、隠れるための笑顔ではない。
「困りましたわ。嫁入り道具を選んでいただけですのに」
「それは君のものではない」
「では、誰の罪ですの?」
マティアスの視線が初めて鋭くなる。彼の手には、星冠印の入った聖約書があった。
写しを取る間、ミレイユはページの端に残る父の筆跡を何度も目で追っていた。怒りだけなら楽だっただろう。けれど、そこには幼い頃に帳簿の読み方を教えてくれた手の記憶もある。人を売ろうとした父と、商売の面白さを教えた父が同じ人間であることが、彼女を苦しめていた。
「父を嫌いきれない私は、甘いのでしょうか」
「いいえ」
「でも、嫌いきれたら楽ですわ」
「楽な道だけが正しいわけではないわ。あなたが痛いまま選んだことも、ちゃんと強さよ」
ミレイユは何も言わず、裏帳簿の赤い紐を撫でた。
外ではユーリアが淡々と時間を稼いでいる。扉越しに、彼女の声が聞こえた。
「レティシア様は記録確認中です。急用なら文書で」
「そこを退け」
「退く理由がありません」
短い応酬に、思わず笑いそうになる。ユーリアらしい。命令には命令で返さず、必要な線だけ引く。
ミレイユも少し笑った。
「あなたの周りの方は、皆さん癖が強いですわね」
「否定できないわ」
「その中へ私も入るのですね」
「嫌?」
「いいえ。癖が弱いと埋もれますもの」
彼女は最後の写しを乾かし、私へ渡した。その紙にはサフィラ王女の名がある。ミレイユ自身の問題だけで終わらせず、次の囚われた人へ証拠をつなぐ。彼女の商才が、初めて誰かの逃げ道になった瞬間だった。
マティアスが現れる直前、ミレイユは写しの束を三つに分けた。王宮の噂買い、宰相家の縁談工作、そしてサフィラ王女の滞在費。
「一つにまとめると、相手は家の不祥事として潰します。分ければ、どれか一つは外へ逃げる」
「あなた、やっぱり強いわ」
「強くありません。弱いので、逃げ道を複数作るのです」
その考え方が、サロンに必要だと思った。強い誰かが全員を守るのではなく、弱さを前提に出口を増やす場所。ミレイユは資金だけでなく、その設計思想まで持ち込もうとしている。王家が恐れるのは、きっとこういう力だ。
金庫室から出る前、ミレイユは父の椅子に掛けられていた上着をそっと整えた。裏切るのでも、従うのでもない。明日また向き合う相手として、乱れを直す。その仕草に、彼女の痛みが詰まっていた。
「甘いと思われますわね」
「あなたの痛みを、他人が値引きする権利はないわ」
ミレイユは小さく頷き、今度こそ扉へ向かう。笑顔の下に帳簿を隠してきた令嬢は、帳簿の下に残っていた自分の優しさまで捨てずに進むのだ。
裏帳簿を証拠にする前に、彼はミレイユ自身を契約で縛るつもりだった。
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