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第46話 商会令嬢は損を選ぶ

 ローゼン商会の金庫封鎖は、予想より早かった。夕刻には本店の鉄扉に父親の印が下ろされ、番頭たちは目を伏せ、帳場の少女たちは誰に従うべきか分からない顔で立ち尽くしていた。


 ミレイユは店の前で馬車を降り、深く息を吸った。香料街の匂い、銅貨の音、荷車の軋み。彼女が育った場所のすべてが、今は彼女を試している。


「帰ってもいいのよ」


 私が言うと、ミレイユは横目で睨んだ。


「帰る場所を取り戻しに来たのですわ。帰ってどうしますの」


 その強がりが好きだと思ってしまい、私は少し困った。好きという言葉は、まだ扱いが難しい。セシリアの祈り、アイリスの忠誠、ノエルの観察。それぞれ違う熱を持つ好意に囲まれて、私はいまだに耳を赤くしてばかりいる。


 店内に入ると、ミレイユの父ローゼン商会主が帳場の奥にいた。丸い体に高価な上着、指には大きな石。だが目だけは商人らしく鋭い。


「戻ったか、ミレイユ。遊びは終わりだ」


「商談が一つ終わっただけですわ。次の商談を始めましょう」


「おまえの持ち分は凍結した。帳簿も印章も、今後は番頭を通せ」


 言葉は淡々としていたが、娘の足元を確実に削っている。マティアスの値札より、父親のこの声のほうがミレイユを傷つけるのだと分かった。


 私は一歩前へ出た。


「ローゼン会長。本人の資産まで封じる根拠は」


「家の問題です、公爵令嬢」


「家の中なら何をしても記録されないと?」


 会長の目が細くなる。私は畳みかけず、ミレイユを見る。ここで私が戦いきってしまえば、彼女の店ではなく私の保護物件になる。


 ミレイユは扇を閉じ、父へ向き直った。


「お父様。私名義の香料仕入れ口座と、港倉庫の小口契約は凍結対象に含まれません。契約日が成人後ですもの」


 会長の眉が跳ねた。


「番頭」


「……お嬢様の仰る通りです」


 番頭の声は小さかった。だが店中に届いた。


 ミレイユは続ける。


「その口座を、薔薇のサロンへ貸し付けます。利息は最低限。返済期限は、王宮の資金凍結が解けるまで」


「馬鹿な。そんなものは赤字だ」


「ええ。赤字ですわ」


 彼女はそこで、少しだけ笑った。痛みを隠す笑顔ではなく、自分で損を選ぶ者の笑みだった。


「でも、私が誰かを商品にしないための赤字です」


* * *


 手続きは簡単ではなかった。会長は拒み、番頭は迷い、書記は宰相家への報告をちらつかせた。私は公爵家の印を出し、ユーリアは扉の外で余計な使者を止めた。


 それでも最後の署名は、ミレイユ一人で行った。彼女名義の小さな口座から、サロン維持費として使える資金が動く。金額は王宮の金庫に比べれば小さい。けれど、自分の意思で動く金は、どんな大金より強い。


 書類が整ったあと、ミレイユは帳場の椅子に座り込んだ。


「ああ、損をしましたわ」


「後悔している?」


「していたら、もっと高く売りました」


 からかう声が戻ってきた。私はほっとして、彼女の前へ茶を置く。


「あなたの資金は必ず守る。サロンの金としてではなく、あなたの選択として」


「では、私もあなたを守りますわ。悪役令嬢は浪費家だと噂される前に、帳簿を美しく整えて差し上げます」


「それは助かるわ」


「それと、贈り物も用意します」


「贈り物?」


 ミレイユは疲れた顔で笑った。


「商人は、好きな相手には請求書だけ送りませんの」


 好き、という言葉があまりに自然に置かれ、私は返事を忘れた。耳が熱い。セシリアなら微笑む。アイリスならむっとする。ノエルなら記録する。私はただ、手袋の指先を整えるしかない。


 店の奥で、鉄扉を叩く音がした。


 番頭が青ざめて駆けてくる。


「お嬢様、裏帳簿が金庫に残っています。王宮と宰相家の支払い控えです。封鎖印が下りる前に取り出さなければ、今夜中に消されます」


 ミレイユは茶杯を置いた。疲れは消えていない。それでも瞳に火が戻る。


「損の次は、回収ですわね」


 小口口座の契約書へ署名する時、ミレイユは番頭にも同席を求めた。父の側についた者を責めるためではない。自分が何を選ぶか、店の者に隠さないためだ。


 番頭は何度も眼鏡を拭き、最後に小さく頭を下げた。


「お嬢様。私は旦那様に逆らえません」


「知っています」


「ですが、その口座の帳尻なら、昔から私が見ております。必要な写しは、倉庫台帳の裏にございます」


 ミレイユの目が潤んだ。誰も味方がいないわけではない。ただ、誰も最初の一歩を踏み出せなかっただけだ。


「番頭、あなたも損をしますわ」


「商人ですから、損切りの時機くらいは見ます」


 その不器用な励ましに、店の空気が少しだけ緩んだ。私は横で見守りながら、サロンという言葉の重みを考える。救われた少女たちが甘く寄り添う場所。それだけでは足りない。彼女たちがそれぞれの力を持ち寄り、互いの生活を現実に支える場所でなければ、王家と教会に一晩で潰される。


 ミレイユの資金は、その最初の柱になる。けれど柱にするなら、彼女をまた役割へ閉じ込めてはいけない。


「この貸し付けには、あなたが撤回できる条項を入れましょう」


「信用していないのですか」


「信用しているからよ。嫌になった時に戻せる契約でなければ、私たちが壊してきた聖約と同じになる」


 ミレイユはしばらく私を見つめ、それからふっと笑った。


「本当に商売下手。でも、そこが高値ですわ」


 店の若い帳場係が、こっそりミレイユへ紙包みを渡した。中身は古い帳簿用のインクと、欠けた計算札だった。


「お嬢様が初めて帳場に立った時のものです。旦那様に捨てろと言われましたが、捨てられませんでした」


 ミレイユは紙包みを両手で受け取った。そこには商会が彼女を商品として扱う前の記憶が残っている。


「ありがとう。これは、私が持っていきます」


「はい。お嬢様のものです」


 その一言に、彼女の表情が崩れた。資金より、契約より、誰かが自分のものだと認めてくれる小さな品のほうが、時に心を支える。私はその場面を記録に残したいと思った。ミレイユが損を選んだ日、彼女は同時に、奪われなかったものも受け取ったのだ。


 王都邸へ運ぶ予定の金額は、決して大きくない。それでもミレイユは、端数まで自分で確認した。誰かに任せれば楽になる場面で、彼女はあえて手を動かす。自分の資金が、自分の意思で動くことを確かめるためだ。


「面倒ですわね、自由って」


「ええ。けれど、面倒を選べるのは悪くない」


 彼女はその答えを気に入ったように、計算札を一枚だけ私の掌へ置いた。預けるのではなく、共有する合図だった。


 封鎖された金庫の奥で、笑顔の下に隠してきた帳簿が私たちを待っていた。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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