第45話 宰相子息の値札
王宮聴聞室へ向かう廊下は、いつもより人が少なかった。少ないのではない。見せたい者だけを残しているのだ。法服の書記、宰相家の代理、王宮記録官、そして私たちの足音を数える衛兵。
ミレイユは隣で背筋を伸ばしている。商会令嬢らしい鮮やかなドレスではなく、深い葡萄色の外出着。装飾を抑えたぶん、彼女自身の顔色がよく見えた。
「怖い?」
「金額の大きい商談は怖いものですわ」
「これは商談ではないわ」
「ええ。だから余計に怖い」
彼女は笑わなかった。私はその正直さを、今日の一番大事な証拠だと思った。
聴聞室の中央には、昨日の契約書が置かれていた。空白の署名欄はそのまま。だが周囲には新しい付箋が増えている。危険人物告発への協力、王宮納入権、ローゼン商会の債務整理。人の人生を囲む値札が、紙片として美しく並んでいた。
マティアスは最上座ではなく、少し横に座っていた。自分は裁く側ではない、調整役であると見せたいのだろう。
「ミレイユ嬢。君の価値を軽く見積もったつもりはない」
彼は穏やかに言った。
「君の才覚、商会の信用、王宮との橋渡し。それらを正当に評価した金額だ」
ミレイユは契約書を見下ろした。
「私の睡眠不足と、胃痛と、嫌だと思う心はどの欄に入っていますの」
記録官のペンが止まる。マティアスの笑みは崩れない。
「感傷は契約の数字に含まれない」
「では、この契約には私が含まれておりません」
静かな声だった。だが聴聞室の壁に、はっきり届いた。
私は彼女の横顔を見る。昨日まで笑顔で外堀を埋めていた令嬢が、今日は自分の内側から石を一つ取り出して、相手の秤へ置いた。
マティアスは私へ向き直る。
「あなたが彼女にそう言わせている」
「言わせていないわ。聞いているだけ」
「同じことだ。聞かれれば、人は望みを作る」
その言葉に、私は手袋の内側で爪を立てた。望みを作る。まるで女の子たちが、誰かに問われるまで空っぽだったかのように。
「望みは最初からある。あなたたちが聞かないだけよ」
* * *
聴聞官が、王宮の名で確認を始めた。ミレイユが宰相家との縁談を拒む理由。ローゼン商会が負う損失。王宮納入権の消滅可能性。質問はすべて損得へ戻ってくる。
ミレイユは一つずつ答えた。損失は理解している。相続権を失う可能性も理解している。父から商会の帳場を外されることも分かっている。
それでも、彼女は最後に言った。
「私の返事は、私のものです」
マティアスがそこで初めて、声をわずかに冷やした。
「では君は、ローゼン商会の娘であることを捨てるのか」
ミレイユの喉が動く。父の名、商会の名、生まれた家。値札ではない鎖が、ここで一番重くなる。
私は口を挟まない。挟めば簡単だ。けれど彼女が自分で選ぶべき場所を、私の言葉で塗ってはいけない。
長い沈黙のあと、ミレイユは扇を畳んだ。
「捨てません。私はローゼン商会の娘です。だから、売り物にされる痛みを知っています。商会の名で、私と同じ商品棚を増やしたくありません」
記録官のペンが走る。マティアスの指が契約書の端を押さえた。
「理想は結構。しかし現実に金は必要だ。ヴァルトローゼ嬢のサロンも、いずれ資金で詰まる。その時、君は何を差し出す」
ミレイユは私を見た。そこにはからかいも、取引の笑顔もない。
「差し出すのではなく、投資しますわ。私が選んだ未来に」
胸の奥が熱くなる。私が彼女を救うだけではない。彼女は、私たちの場所を現実の資金で支えると言っている。
マティアスは静かに立ち上がった。
「その未来の値段を、君はまだ知らない」
「知ります。帳簿をつけるのは得意ですから」
聴聞はそこで打ち切られた。勝利ではない。宰相家は引き下がったのではなく、次の手を選んだだけだ。
廊下へ出ると、ミレイユは壁に手をついた。笑顔が、そこでようやく崩れる。
「足が震えていますわ」
「座る?」
「いいえ。立ったまま褒めてください。崩れたら、また値札を貼られそうですもの」
私は彼女の震える指先へ、触れていいか目で尋ねた。ミレイユは小さく頷く。手袋越しに指を重ねると、彼女は息を吐いた。
その時、ローゼン商会の使者が駆け込んできた。
「お嬢様、旦那様が金庫を封鎖されました。帳簿も、資金も、すべて」
ミレイユは目を閉じた。
「高い女になりましたわね、私」
聴聞の途中、ミレイユの父は一度も彼女を見なかった。会長はずっと契約書を見て、金額を見て、マティアスの表情を見ている。娘の顔だけが、帳簿から抜け落ちていた。
そのことに気づいた瞬間、私は怒りより先に寂しさを覚えた。彼女はずっと、見られない場所で笑い方を磨いてきたのだ。見てもらえないなら、せめて売れる笑顔を。そんな努力がどれほど孤独だったか、私は想像するしかない。
「ローゼン会長」
私は思わず声をかけた。
「娘の返事を聞く時くらい、彼女を見てください」
会長は眉をひそめる。
「公爵令嬢に家族の礼儀を教わるとは」
「礼儀ではありません。記録です。あなたが誰の言葉を聞かなかったか、ここに残る」
記録官のペンがまた走った。会長は忌々しげにミレイユを見る。遅すぎる視線でも、彼女は逃げなかった。
「お父様。私は商会を嫌いになりたいわけではありません。帳場の音も、港の匂いも、値引きに失敗して悔しがる番頭の顔も好きです」
番頭が廊下の端で目を伏せた。
「だからこそ、私を売って得た納入権で店を大きくしたくないのです」
その言葉で、聴聞室の空気が変わった。商会を捨てる娘、という宰相家の筋書きが崩れる。ミレイユは逃げたいのではなく、守りたいのだ。自分を含めた商会の未来を。
マティアスはそれを悟り、指先で付箋の一枚を剥がした。
「では、守れるだけの金を君が用意できるのか」
問いは刃だった。だがミレイユは、ようやく自分の得意な土俵へ戻った顔をした。
「できます。少なくとも、あなたに私を売るよりは安く済ませますわ」
廊下で休む間、セシリアから預かった小瓶をミレイユへ渡した。祈りを込めた香草水だ。
「聖女候補様から?」
「ええ。無理に飲まなくていい、とも言っていた」
ミレイユは瓶を光に透かし、ふっと笑った。
「売り文句が控えめすぎますわ」
「飲む?」
「いただきます。今なら、優しさの原価を考えずに済みそうです」
彼女は一口だけ飲み、目を伏せた。甘さより先に安堵が広がった顔だった。重い聴聞のあとに、小さなケアが必要なのはセシリアだけではない。私はそれを忘れないよう、空になった瓶を大切に受け取った。
冗談のような声で、彼女は次の戦場を見た。
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