第44話 契約書の空白
宰相家の馬車は、客を乗せるためではなく囲むために来ていた。黒い車体の両脇に法服の書記が立ち、御者台には近衛ではない護衛が座っている。剣の鞘に王宮の紋はないが、動きは官の訓練を受けた者だった。
「乗れば面談、乗らなければ不敬。便利な馬車ですこと」
ミレイユはそう言って笑ったが、爪先は半歩だけ後ろへ下がっていた。私はその半歩を見逃さない。
「乗らない選択もあるわ」
「逃げたと書かれますわ」
「なら、こちらから行く。私の馬車で」
ユーリアが無言で扉を開けた。護衛の一人が止めようとした瞬間、アイリスの名が頭をよぎった。剣で突破する場面ではない。ここは書面で戦う場所だ。
私は宰相家の書記へ告げた。
「面談には応じます。ただし移動手段、同席者、記録役はこちらで指定します。未署名の令嬢を密室へ運ぶ馬車には乗せません」
書記は反論しかけ、ミレイユが先に扇を閉じた。
「私も同じ希望です」
本人の希望。その単語が出た瞬間、護衛の視線が泳いだ。彼らは命令には慣れているが、本人の希望には弱い。
* * *
宰相家別邸の会議室は、法典の匂いがした。壁には王国法の注釈書が並び、中央の卓にはすでに契約書が広げられている。最初から、こちらに読ませるための配置ではない。署名させるための舞台だ。
私は席に着かず、契約書の端を見た。本人署名欄だけが空いている。父親の署名、商会印、宰相家の承認印、王宮納入権の補助印。ありとあらゆる手が、空白一つを包囲していた。
「ミレイユ様の署名欄は、なぜ最後に残されているの」
書記が答える。
「ご本人の意思を尊重するためです」
ミレイユが短く笑った。
「尊重とは、書く前に周囲を全部埋めることでしたのね」
会議室の奥の扉が開いた。マティアス・オルブライトが現れる。整った銀髪、穏やかな目、手袋まで隙のない男。優しげな声で人を縛る種類の貴族だ。
「誤解があるようだ、ミレイユ嬢。君が不安にならないよう、条件を先に整えただけだ」
「私の不安を、私抜きで計算なさったのですね」
「君は商会令嬢だ。数字の価値は分かるだろう」
マティアスは私へ視線を移した。
「レティシア嬢。あなたが関わると、女性たちは皆、家や国の責務を忘れてしまう」
「忘れたのではなく、初めて自分の責務を選んでいるだけよ」
「美しい言い回しだ。しかし王国は詩で動かない」
彼は契約書の空白を指した。
「ここに署名すれば、ローゼン商会は王宮納入権を得る。ミレイユ嬢は宰相家の保護を得る。あなたへの告発も、商会の協力により穏当な形へ収まる。誰も損をしない」
ミレイユの指が扇を握る。誰も損をしない、と彼は言った。本人が欲しくない婚約を差し出すことを、損に数えない。
私は鞄から、昨日ミレイユが書いた希望の紙を出した。
「契約書には空白があります。こちらには本人の言葉がある。どちらを先に読むべきかしら」
マティアスの目が細くなる。
「私的な感情は、契約の妨げになる」
ノエルなら、その言葉に観察記録を三枚は書いただろう。感情を邪魔物として扱う者は、いつも誰かの本心を都合よく削る。
「契約は本人の意思があって初めて成立する。感情を妨げと呼ぶなら、それは契約ではなく拘束よ」
ミレイユは私から紙を受け取り、自分で読み上げた。自分の商会を持ちたい。誰かの財産として嫁ぎたくない。声は途中で一度だけ揺れたが、最後まで落ちなかった。
マティアスは微笑みを保ったまま、署名欄を指で叩く。
「では、そこへ拒絶を書けばいい。君が本当に望まないならね」
挑発ではない。罠だ。聖約印のある契約書に拒絶を書けば、未成立の空白が本人署名として扱われかねない。
私はミレイユの手を止めた。
「ここには書かない。別紙に書くの」
「弱気ですわね」
「慎重なだけよ」
ミレイユは小さく頷き、自分の便箋を取り出した。商会の印も宰相家の印もない、彼女自身の紙。そこへ、はっきりと拒絶を書く。
その瞬間、契約書の空白が薄く光った。まるで獲物を逃した口が悔しがるように。
マティアスの微笑が初めて固まる。
「その紙は預かろう」
「いいえ」
ミレイユは便箋を胸元へ抱いた。
「これは、私の商品ではありません」
会議室の外で鐘が鳴る。王宮聴聞室へ送られた契約書の控えが、今夜にも動くと書記が囁いた。
別紙に拒絶を書く前、ミレイユは一度だけ私に紙を返した。
「もし、私がここで怖くなったら?」
「怖くなったままでもいい」
「それは返事になりませんわ」
「怖くない人だけが拒絶できるわけではないもの。震えていても、嫌だと思う心は本物よ」
彼女の肩から力が抜けた。セシリアが初めて嫌と言う練習をした朝を思い出す。小さな拒否を積み重ねなければ、大きな鎖の前で声は出ない。ミレイユも同じだ。ただ、彼女の場合は拒否を金額や契約条件へ翻訳しすぎて、本心の声が遠くなっていただけ。
「あなたは、本当に厄介な方ですわね」
「よく言われるわ」
「でしょうね。私の中の帳簿が合わなくなりますもの」
「帳尻はあとで合わせましょう」
ミレイユはようやくペンを取った。ペン先が紙に触れる寸前、マティアスが口を挟む。
「一時の感情で家を乱すな。君の父は、君のために最良の道を選んだ」
ミレイユはペンを止めた。私は息を詰める。父の名は彼女の弱い場所だ。
けれど彼女は、振り返らなかった。
「父が選んだ道を否定するのではありません。その道に、私の足が向いていないと言っているのです」
その一文は、拒絶より先に彼女自身を救ったように見えた。家を憎むのでも、父を切り捨てるのでもない。自分の足の向きを確かめる。私はその言い方を、丁寧に胸へしまった。
会議室の端では、宰相家の書記がこちらの反応を細かく記録していた。その視線に気づいたミレイユは、わざと背筋を伸ばす。
「記録なさるなら、綺麗に書いてくださいませ。商会令嬢ミレイユ・ローゼンは、泣き落としではなく本人意思により拒絶した、と」
「文言は聴聞官が決めます」
「いいえ。私の言葉は私が決めます」
その一言で、空白欄よりも先に部屋の空気が裂けた。私は胸の中で彼女へ拍手を送った。昨日まで返事を値札で隠していた人が、今は文言まで手放さないと宣言している。救出とは、この変化を奪わず見届けることなのだ。
空白はまだ消えていない。けれど、そこへ入るべき言葉はもう決まった。
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