第43話 金冠で買えない返事
帳簿室の鍵は外から掛けられていた。厚い扉の向こうで、商会の者たちが慌ただしく動く足音がする。閉じ込めるなら静かにすればいいものを、彼らは権力の気配を隠す訓練を受けていない。
ミレイユは扇で口元を隠し、わざと明るく言った。
「鍵が掛かる部屋は嫌いではありませんの。中に商品があるという意味ですから」
「あなたは商品ではないわ」
「ええ。そう言っていただくと、値段をつけづらくなります」
冗談の形をしているのに、言葉の底が痛かった。私は机の上の帳簿を重ね、隙間へ薄い封筒を見つけた。昨夜の契約書とは別の紙。宰相家からの正式な縁談回答期日だった。
そこには金冠の額が並んでいた。婚資、商圏譲渡、王宮納入権、危険人物告発への協力報奨。美しい筆跡で整えられているほど、吐き気がする。
「返事に値段をつけている」
「父は、私が迷う時間にも利息が発生すると考える人ですわ」
ミレイユは窓辺へ歩き、背伸びをした。高窓から見えるのは、空の端だけだ。籠の中で育った鳥という言い方は似合わない。彼女は鳥ではなく、秤皿に置かれた宝石のように磨かれてきた。
「レティシア様。あなたなら、いくらで私を買います?」
「買わない」
「即答は少し傷つきますわ」
「あなたの返事を買った瞬間、私はマティアスと同じになる」
ミレイユの扇が止まった。私は続ける。
「あなたが私の側へ来たいなら、来て。来たくないなら、証拠だけ預けて離れてもいい。私はあなたの自由を担保にしない」
「優しいのか、商売下手なのか分かりません」
「たぶん両方ね」
ミレイユはそこで小さく吹き出した。初めて、相手の反応を計算するためではない笑いだった。
* * *
扉の外から男の声がした。家令ではない。法文を読む者の抑揚だ。
「ミレイユ様。旦那様より、宰相家への回答を整えるよう仰せです」
「整える、ですって」
彼女は低く呟き、私へ目配せした。私は頷く。整えられる前に、本人の声を残す。
ミレイユは扉の前へ立った。
「回答は私が直接申し上げます。ここを開けなさい」
「お父上は、レティシア様との接触をお控えになるようにと」
「私の商談相手を父が選ぶなら、商会令嬢の看板を下ろしますわ」
扉の向こうが静まった。ミレイユの声は震えていない。震えは、彼女が握り締めた扇の骨にだけ出ている。私はそっと横へ立った。支えるために触れない。彼女の言葉が自分の足で届くように。
鍵が開いた。廊下にはローゼン商会の番頭と、宰相家の書記が立っていた。書記の手には封じたばかりの返信状がある。
「お嬢様、ご署名を」
「内容を読み上げて」
「お父上がすでに確認を」
「私は、私の名で出す返事を読まずに署名しません」
番頭の額に汗が浮く。書記は一礼し、封を切った。そこには、ミレイユが宰相家との縁談を光栄に受けると書かれていた。さらに、ヴァルトローゼ家について必要な情報提供を惜しまないとも。
ミレイユは最後まで聞いた。途中で泣かず、怒鳴らず、笑みも貼らない。聞き終えてから、私の方へ一度だけ視線を寄こした。
「レティシア様。金冠で買えないものは、本当にありますのね」
「あるわ」
「では、私の返事もそれです」
彼女は書記からペンを奪わず、ただ自分のペンケースを開けた。商会令嬢の道具。銀の軸に小さな赤い石が嵌め込まれている。
返信状の下部に、彼女は署名ではなく一行を書いた。私はこの縁談を望まない。
紙に魔力の揺らぎが走った。星冠印が反応し、文字を滲ませようとする。私は手首の痛みを覚え、すぐにミレイユの前へ手を出した。
「あなたの本心?」
「ええ。損得ではなく、本心です」
破約の薔薇はまだ開かない。契約が成立していないからだ。けれど星冠印の滲みは止まった。本人の拒絶が、紙の上で踏みとどまったのだ。
書記の顔色が変わる。
「この返答は受理できません。宰相子息マティアス様より、即時の面談招待がございます」
「招待ではなく呼び出しでしょう」
私が返すと、書記は薄く笑った。
「呼び名は、上の方々が整えます」
その言い方に、ミレイユの瞳が冷えた。
「では私も整えますわ。明日、宰相家の面前で同じ返事を申し上げます」
彼女は自分で封筒を折り直した。赤い封蝋ではなく、空白のまま。
「売られた返事を、買い戻しに参りましょう」
即時面談の招待状には、返答期限が砂時計ひとつ分と書かれていた。人の決断を砂の落ちる速さで量る発想に、ミレイユは心底呆れた顔をした。
「砂時計商に謝ってほしいですわ。時間は売れても、心までは売れませんのに」
「あなたなら時間も高く売れそうね」
「ええ。あなたと過ごす時間なら、値引きしても構いません」
さらりと言われ、私は咳き込んだ。帳簿室の空気が重かったせいにしたかったが、ミレイユの目が楽しそうに細まっているので無理だった。
「からかわないで」
「からかっていません。半分くらいは本気です」
「半分なのね」
「残り半分は、まだ仕入れ中ですわ」
彼女はこうして笑いながら距離を詰める。セシリアの祈るような近さとも、アイリスの真正面からの忠誠とも違う。ノエルの無自覚な接近より、はるかに自覚的で、だからこそ逃げ場をくれる。
私はその余裕の裏にある怯えを忘れないよう、招待状を丁寧に畳んだ。
「ミレイユ。面談へ行く前に一つだけ約束して」
「何でしょう」
「怖くなったら、怖いと言うこと。損得の言葉へ変えなくていい」
彼女はしばらく黙った。たったそれだけの約束が、契約書より難しいのだと分かる。
「努力します」
「努力で足りない時は、袖を引いて」
「それは、かなり高価な合図ですわね」
「無料よ」
「ますます危険です」
そう言いながら、彼女は私の袖を一度だけ軽く引いた。今は大丈夫、でも覚えておく。そんな小さな重さだった。
面談招待状を持つ書記が去ったあと、ミレイユは帳簿室の床に座り込んだ。ドレスが皺になるのも構わず、天井を見上げる。
「行儀が悪いでしょう」
「誰も見ていないわ」
「あなたが見ています」
「秘密にする」
「では、もう少しだけ」
彼女は目を閉じた。商会令嬢として整えられた姿勢から解放された短い休憩だった。私は隣に腰を下ろさず、扉の前に立つ。守るとは、抱きしめることだけではない。相手が無防備に息をつける数分を、誰にも踏ませないことでもある。
扉の外で、宰相家の馬車が待っていた。
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